――写真の沈黙をもってイメージの増殖と氾濫に抵抗する――港千尋 / 多摩美術大学美術学部教授・映像人類学週刊読書人2021年9月10日号ボードリヤールとモノへの情熱 現代思想の写真論著 者:アンヌ・ソヴァージョ/ジャン・ボードリヤール(写真)出版社:人文書院ISBN13:978-4-409-04116-1 今日では誰もが写真を撮るが、作品として発表する人は依然として少ない。でも作家や思想家が写真を撮ることは珍しいわけではなく、特にフランスではそれなりに多くの作品集が刊行されている。たとえばクロード・レヴィ=ストロースがブラジル滞在中に、あるいはピエール・ブルデューがアルジェリア滞在中に撮った写真は、どちらも民族学のフィールドワークの成果としてだけでなく、作品として独自の表現力をもっている。ジャン・ボードリヤールも「思想家の写真」の系譜に連ねられそうだが、本書を読むと「哲学=写真家」としての姿が鮮やかに浮かび上がる。 例として挙げた人類学者や社会学者がカメラを持ったのはいずれも若かった頃で、それぞれの学問を率いるようになって以降、どちらも写真を撮ることはなかったのだが、反対にボードリヤールのほうは現代フランス思想を代表するひとりとなった後に、カメラを手にした。本人によれば一九八〇年代に日本を訪れた際にプレゼントされたのがきっかけで、八〇年代後半から世界各地で撮影している。 本書には計八葉のカラー作品が収められているが、いずれも八〇年代から九〇年代にかけてのものである。九七年には東京渋谷にあったパルコギャラリーで開かれたグループ展に参加し、その際に『消滅の技法』というエッセイ付きの写真集も刊行されている。ボードリヤールと長年の交流があり、阪神淡路大震災ではカメラを持った彼に同行したこともある訳者による解説は、日本の読者にとってボードリヤール写真論への最良の手引となっている。 著者のアンヌ・ソヴァージョが、ボードリヤールの思想と写真をつなぐ鍵概念として取り上げるのは、モノである。通常わたしたちは、カメラを持った主体が客体としての世界=被写体を撮ると思っている。これと正反対なのがボードリヤールの見方で、彼はモノのほうが撮影されることを欲していると表現する。主体と客体が逆転しているのであり、モノがわたしたちに撮らせているのである。奇妙に聞こえるかもしれないが、カメラのレンズのことをオブジェクティフと呼び、写真の主題のことをスジェ(サブジェクト)と言うフランス語の日常的な写真用語のなかに、こうした逆転は頭をのぞかせていると言えるかもしれない。 その意味ではデビュー作の『物の体系』から一貫して、主体の代わりにモノの領分へ移行するというボードリヤールの志向は、写真にも通底していると言える。だが気をつけなければならないのは彼にとって撮影という行為は、モノの思想の実践ではなく、むしろ言葉や意味、さらには表象そのものからの逃走だったという点である。このことは第二部に収録されている講演録でボードリヤール自身が明確に語っている。 逆説的ではあるが、と前置きしてボードリヤールは、イメージの力を利用して、表象からモノの領域へと移動することが出来ると言う。「逃走」というと消極的に聞こえるが、ボードリヤールにとって、写真は「抵抗」にほかならない。写真の沈黙はパロールに抵抗し、コミュニケーション全般に抵抗する。ボードリヤールが念頭に置いているのは明らかに、情報産業とコミュニケーション産業の全域化であり、(講演が行われたのは一九九九年、たとえばグーグルが誕生して間もない頃である)、イメージの自動的な増殖と氾濫そのものに対して、抵抗するのは写真の沈黙であると語るのである。 この考え方は、写真を真剣に撮影したことがある人でないとわからない、ある実感に支えられていると、わたしは思う。誰もが写真を撮る時代に、作品として発表される写真が必要なのはそのためである。本書が哲学や思想の分野を超えて、現代写真や写真を志す人にも読まれてほしいと思う。色彩に気を配った美しい装幀からも、哲学=写真家の真剣さを伝えようという意思が伝わってくる。(塚原史訳)(みなと・ちひろ=多摩美術大学美術学部教授・映像人類学)★アンヌ・ソヴァージョ=トゥールーズ・ジャン・ジョレス大学名誉教授・社会学。バーチャルリアリティでの社会的文化的インパクト、デジタルメディアでの社会的機能やその影響の研究などで著名。ボードリヤールと交流があり、現在もマリーヌ夫人と親しい。