――モーリシャスの一族の存続と消失を集約する土地で――中村隆之 / 早稲田大学准教授・仏語圏文学週刊読書人2021年3月5日号アルマ著 者:J.M.G.ル・クレジオ出版社:作品社ISBN13:978-4-86182-834-8 ル・クレジオの文学には父祖の土地モーリシャス島を題材とする一群の作品がある。その最新作にあたる本作は、何よりも喪失しつつある固有名をめぐる物語であり、とりわけ忘れがたい名は、モーリシャス島の固有種で、はるか昔に絶滅した鳥ドードーだ。 かつては無人の孤島だったモーリシャスで、ダチョウのように羽根が退化した大型鳥が生息する時代があった。ところが十六世紀末のオランダ人の渡来以降、乱獲に加え、この島に人が持ち込んだ家畜やネズミに卵を食い尽くされた結果、一世紀も経たないうちに絶滅の途をたどった。現在、ドードーは西洋社会の書物と博物館のなかにその痕跡をかろうじてとどめている。 作家との類縁性を感じさせる、パリ国立自然史博物館に勤めるジェレミーは、ドードーの「砂嚢の石」を肌身離さずもっている。歯で咀嚼することのできない鳥類が消化のために体内に有するこの石は、絶滅した鳥の生の証であると同時に、モーリシャスで生まれ、フランスに渡った父アレクサンドル・フェルセンの形見だ。モーリシャスへの旅のジェレミーの内的動機は、フェルセン一族の調査にある。 調査を通じてジェレミーが確認するのは、フェルセン一族が四散し、消滅してしまったという事実だ。そして、その調査の過程で、ジェレミーが絶えず気に懸ける人物がいる。この一族の最後の生き残りであり、絶滅鳥をあだ名とするドミニク・フェルセンだ。作中では「ドードー」と呼ばれる。 ジェレミーはこの人物を滞在中に探し出そうとするが、会うことは叶わない。絶滅鳥と永久に出会えないように。この不可能は、本作の語りの構成に見事に反映されている。全四十三章からなる本作は、ジェレミーが語る章とドードーが語る章が交錯しながら進むのであり、ジェレミーのことを知る由もないドードーは、自身の特異な遍歴を独白調で語っていく。 ドードーは若くして「Σの病気」に感染し、「鼻と眉毛、まぶたと髪の毛を失い、一個の怪物」になるという悲劇を生涯背負い続ける。社会の異物として浮浪者の生活を強いられるドードーは、ジェレミーの反転した分身と呼びうるほど、あまりに対照的だ。ドードーは、障害をもつ周縁者にして「同じ一日を生きている」不眠症者として、彼の身の上に起きる現在と遠い過去の記憶をひと続きの経験として語る。 放浪生活を送るドードーが決まって帰ってくる場所がある。それがアルマだ。この場所はフェルセン一族が代々暮らしてきた土地であり、一族離散はここから始まった。土地が別の一家に買われて追い出されたのだ。アルマに唯一戻ってくるドードーも、ある出来事をきっかけにフランスに渡ることになる。フェルセン一族の存続と消失を集約するこの土地の名が本書の表題をなしている。 このように本作はモーリシャスの一族をめぐる記憶の消失をライトモティーフとしつつ、ル・クレジオ文学に見られるさまざまな主題が数々の挿話とともに有機的に連関しあう、傑作と呼ぶにふさわしい作品だ。本作の翻訳は、ル・クレジオ文学を長らく訳されている中地義和氏の手による。練り上げられた品位ある訳文と意を尽くした訳者あとがきが日本語版に新たな価値を与えている。 最後に評者の視点から注目した事柄を記しておこう。フランス旧植民地の歴史的横断性に関わることだ。本作に登場するフランス語由来の地名は、ほかの植民地にも同じく見出せるものが多く、命名のパターンは地形の特徴や聖人名に因んでいる。モーリシャスにおけるアフリカからの奴隷貿易と奴隷制の歴史、熱帯作物栽培の農園、話し言葉クレオール語の形成は、カリブ海の島々にも見られる。観光用に開発される二〇世紀後半以降の風景も同様だ。こうしたポストプランテーション社会の物質的基盤の共通性を踏まえると、奴隷制に基づく社会と家系の問題を創作の場とした先駆者ウィリアム・フォークナーとの文学的系譜関係を辿ることもできるかもしれない。(中地義和訳)(なかむら・たかゆき=早稲田大学准教授・仏語圏文学)★J・M・G・ル・クレジオ=南仏ニース生れ。一九六三年のデビュー作『調書』でルノドー賞を受賞し、一躍時代の寵児となる。著書に『大洪水』『海を見たことがなかった少年』『砂漠』『黄金探索者』『隔離の島』『嵐』など。二〇〇八年ノーベル文学賞受賞。一九四〇年生。