――焦点深度の深い時間を背負った、稀有な媒介者――瀬尾育生 / 詩人・東京都立大学名誉教授・ドイツ文学週刊読書人2020年11月20日号リリカル・クライ 批評集1983-2020著 者:林浩平出版社:論創社ISBN13:978-4-8460-1894-8 林浩平さんは、朝吹亮二さん、松浦寿輝さん、松本邦吉さん、吉田文憲さんとともに、一九八〇年代を代表する詩誌「麒麟」の同人だった。この本は、その時代以来、折に触れてさまざまな対象について書かれた、どれも比較的短いが、密度の高い、膨大な数の文章をあつめている。 四〇年という時間を凝縮した、地層のように分厚い本だ。読者はすきなところから、この時間の堆積の中に入ってゆくことができるし、そのたびにこの本はさまざまな景観を見せてくれる。その景観を、詩史的・地誌的・自己史的というコトバで、言ってみたくなった。 詩史的、というのは、この本を、たとえば西脇順三郎→瀧口修造→田村隆一→北村太郎→吉増剛造とたどりながら読むこともできるし、あるいは萩原朔太郎→三好達治→高浜虚子→安東次男とたどることもできる。さらに同時代の詩人たちの作品を、数多く横断的にたどることもできる、ということである。詩や小説ばかりではない。ピナ・バウシュから笠井叡、大野一雄にいたる舞踏の線をたどることもできる。ジャンルを超えた縦横の線を、読者はここに引くことができるのだ。 地誌的、というのは、たとえば十田撓子の詩をめぐって秋田県の大湯にハリストス教会をたずね、南部藩家臣の墓に十字架が刻まれているのを目撃し、近くの環状列石(ストーンサークル)を見学する。NHK時代の赴任地だった松山に、『吉田』の詩人栗原洋一に導かれて久米官衙遺跡群を尋ねる。またあるときは朔太郎の住んだ世田谷をさまよい、自身が住む仙川近くの古墳群を探索する……という時間と空間の旅を指している。作品を語ることが、つねに民俗学的・地誌的な空間とつながっている。この視点も林さんのなかに、終始貫かれているものだ。 自己史的、というのは、少年時代に触れた文学から、大学時代はロックバンドにあけくれ、NHK時代を経て、さまざまな詩人たち、アーティストたちとの交流へすすむさまざまな場面だ。いくぶんセピア色したこの自己史的な光景は、この本のあちこちにちりばめられていて、この四〇年、同じ現代詩の世界にすみついてきた私は、この一冊のどこかに自分も点景として含まれているような、とてもなつかしい気持ちをさそわれる。 林さんは何でも知っている。その知識は半端なものではない。また多くの人々と出会っている。知的な意味でも、身体的にも、とてもフットワークがよい。また詩だけでなく短歌・俳句・小説・美術・映画・舞踏へと境界を越えて世界を広げている。無数の人名のうち、私に言及可能なのは、そのうち一割にもみたないだろう。分厚いこの本は、いたるところに稠密な細部と強度のかたまりをもちながら、その内部で、あらゆる境界をこえて広がる連続空間をつくりだしている。 書名の「リリカル・クライ」は、三好達治が萩原朔太郎を論じて使った言葉だという。著者自身はこう述べている。《批評集のタイトルにこれを選んだのは、いわば反語としてである。批評の文章は、純粋な散文でなくてはならない。たとえ詩を論じる場合でも、いや、詩の抒情の世界を分析するのならとりわけ、発揮されねばならぬのは散文の精神である。》 林さんはNHKのテレビディレクターだった数年から、ほとんど体質化されたジャーナリスト性を手に入れたのだと思う。「自分の内面よりも、ひとびとに何を届けるか」を考えるという姿勢をたいせつにしている。それは研究者の文体とはちがう。正岡子規について、その「ジャーナリスト」としての本質をいい、また「服部南郭・祇園南海から吉増剛造・車谷長吉まで」という副題のもとに「〈文人〉精神の現代的展開」を見事に論じるが、ジャーナリストという言葉にも、文人という言葉にも、いずれも著者の自画像が含まれているように感じる。《メディア、メディウムつまり媒体として、自らをとらえかえした時点にあって、子規は自らの主体をメディア空間のなかに解き放った》(「ジャーナリスト正岡子規」)。 どんな対象を描くときも、その近傍へ読者を連れて行ってくれる。林さん自身は、そこで自分を透明にして対象を見せてくれるが、しかし透明であるままで、自らの身体がそこにしっかり居合わせるようになっている。対象との出会いこそを望んでいる読者にとって、それは幸せなことだ。焦点深度の深い時間を背負った、稀有なメーディウム、林浩平がそこにいるのだ。(せお・いくお=詩人・東京都立大学名誉教授・ドイツ文学)★はやし・こうへい=詩人、文芸評論家、日本文学研究。現代詩、文学、美術、ダンス、ロックを論じる。現在、早稲田大学法学部、武蔵野美術大学、跡見学園女子大学、名古屋芸術大学で非常勤講師。一九五四年生。