――「破壊的可塑性」としての老いのかたち――星野太 / 早稲田大学社会科学総合学術院専任講師・現代哲学・美学・表象文化論週刊読書人2020年7月10日号(3347号)偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論著 者:カトリーヌ・マラブー出版社:法政大学出版局ISBN13:978-4-588-01116-0カトリーヌ・マラブーは、博士論文を元にした『ヘーゲルの未来』(西山雄二訳、未來社、二〇〇五)以来、「可塑性(プラスティシテ)」という概念をもとに思索を続けてきた哲学者である。ここでいう可塑性とは、さしあたり「形」を受け取ることと与えることを、あるいはその生成と破壊を同時に意味するものと考えておけばよい。この魅力的な概念を武器に、哲学、脳科学、神経生物学にまたがる刺激的な考察を重ねてきた彼女の手腕は、ここ数年の『新たなる傷つきし者』(平野徹訳、河出書房新社、二〇一六)や『明日の前に』(平野徹訳、人文書院、二〇一八)といった邦訳書を通じて見ることができる。 本書『偶発事の存在論』は、二〇〇九年に刊行された、フランス語で一〇〇頁にも満たない小著である。しかし本書には、マラブーがこれまで粘り強く展開してきた思想のエッセンスがたしかに凝縮されており、その意味で一読に値する。 本書の基本的なスタンスは、ともすると不思議な印象を与えかねないそのタイトルにも現われている。かつてミシェル・フーコーは、一九世紀後半の産業化にともなう事故(アクシデント)の頻発が、当時の政治や経済における大きな懸念であったことを指摘していた。こうしたケースを俟つまでもなく、「アクシデント」とは本来であれば予測不可能な──そして望ましからざる──事態として把握されるのが常である。本書における偶発事(アクシデント)のステータスもそれと大きく異なるわけではないが、ここで問題となっているのは、ある個人の同一性に決定的な変容をもたらしてしまうような「アクシデント」のことである。 そこにはもちろん、前述のフーコーが問題にしたような「事故」──たとえば旅客事故や労働事故──も含まれる。とはいえマラブーなら、その事故に遭った人間がいかなる根本的な変容をこうむるのか、という次元にこそ関心を寄せるだろう。そればかりではない。アルツハイマー病を患った者、戦争や災害によって心的外傷を負った者が経験する人格の根本的な変容も、やはりそうした偶発事のなかに数え入れられる。アクシデントは一般的に統計的な「事故」や予見不可能な「出来事」という抽象的な次元において捉えられるものだが、個々のそれがわれわれの「存在」そのものに強制的に介入してくるものであることを忘れないようにしよう。本書が「存在論」と称されているのはそのためである。 より平たく言いかえるなら、本書が問題とするアクシデントとは、しばしば「川の流れのように」(三頁)と評される、人生の漸進的な変化に突然の亀裂を入れるものである。なかでも興味深いのは、マラブーがこの「亀裂」を、ふつう漸進的な変化として把握される「老い」と対立的に捉えていないことにある。ひとは日々の時間のなかで徐々に「老いる」ものだと思われているが、そうした漸進的な老いから逃れてしまうような、瞬時の老いというものがある。いや、もう一歩進めて言えば、本当の老いとは漸進的なものなどではなく、つねにそうした「瞬時の」ものにほかならないのだ。そのことを示すためにマラブーが引き合いに出すのが、プルーストやトーマス・マンらの作品に登場する人々であり、そして作家マルグリット・デュラスの人生なのである。 おそらく本書の最大の読みどころは、『愛人(ラマン)』のあまりにも有名なフレーズ──「一八歳で、私は年老いた」──から出発して、破壊的可塑性という概念をみるみる実体的なものとしていく、本書中盤の筆の冴えにこそあるだろう。ここに至ってマラブーは、生成と破壊を同時に担うものとされたかつての可塑性概念からさらに歩みを進め、いかなる因果の連鎖からも外れたものとしての破壊的可塑性の理論に到達する。本書はその二年前に上梓された『新たなる傷つきし者』の問題意識を引き継ぎつつ、それを「老い」という主題に結びつけつつ論じた、刺激的な小著である。(鈴木智之訳)(ほしの・ふとし=早稲田大学社会科学総合学術院専任講師・現代哲学・美学・表象文化論) ★カトリーヌ・マラブー=英キングストン大学近代ヨーロッパ哲学研究センター教授。著書に『ヘーゲルの未来』『明日の前に』など。一九五九年生。