――伝わる言葉、つながる心――李承俊 / 愛知学院大学非常勤講師・日本近現代文学・文化史週刊読書人2021年2月26日号隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国著 者:金智英出版社:筑摩書房ISBN13:978-4-480-82381-6 二月一六日は、尹東柱(ユン・ドンジユ)の命日である。今の中国で生まれ、ソウルの学校に進学し、その後留学先である日本で死した朝鮮の詩人に惹かれた本書の著者は、自身と同様に尹東柱の詩に惹かれ、朝鮮の言葉を勉強し、ついに自らの語学力をもって『韓国現代詩選』を翻訳刊行するに至った戦後詩人、茨木のり子と出会った。本書の深層では、日本と出会った韓国人の研究者と、韓国と出会った日本人の詩人との、声にならない対話が絶え間なく響き合っている。これは著者が、常に対話的な営みを通じて他者を理解しようとした茨木のり子の詩と、まさに対話をするが如く丁寧に触れ合ったからこそ生じうる相互作用の木霊に他ならないだろう。 前半(第一部〜第二部)では、戦後を代表する詩人の一人である茨木のり子の詩の分析を通じて、彼女が追究した詩の方向性とその実践の様相を明らかにしている。茨木は、『荒地』や『列島』に象徴されるような理屈っぽい詩論の打ち立てと一線を引きつつ、戦後日本社会の不合理と、その中で生きることへの覚悟を分かりやすい日本語で「明るくさわやか」に表現しようとした。このような茨木が造形する詩的言語は、決して自我の内面に閉じこもるものではない。他者と向き合い、他者と対話し、他者を理解することで自分自身を確認するといった開かれたプロセスが用意されたものである。他者と共鳴する詩的言語を紡ぎ出した茨木は、自分の母語である日本語で対話ができる隣国の詩人、洪允淑(ホン・ユンスク)(홍윤숙)と言葉を交わす。植民地時代に日本語が強制された朝鮮半島出身の詩人の一言、「学生時代にずっと日本語教育されましたもの」によって自らの無知と恥を自覚してしまった茨木は、「ハングルへの旅」を開始し、「隣国語の森」を冒険する。 後半(第三部~第四部)で著者は、茨木の「ハングルへの旅」の密かな連れ人になったかのように、その終始を追っていく。一人の日本人の詩人が、どのように韓国と出会い、触れ合い、戯れ合ったのかの核心は、一言でいえば「ハングル」つまり韓国語(朝鮮語)を勉強して『韓国現代詩選』を自ら翻訳したという点にある。他国の文学的な言葉を自国の言葉に翻訳することができるレベルの外国語能力を手に入れるためには、長い歳月にわたる持続的な努力を要する。茨木は、「私」の言葉ができる他者に甘えたりはしなかったのだ。だからこそ、こちらも他者の言語ができるように努力しなければならないと決心したのだ。戦後日本を生きる人々に他者の存在、他者との対話の切実さを伝えようとした茨木は、戦後日本におけるさまざまな社会的問題が決して日本国および日本国民だけのものではなく、隣国との関係において生じたものである限り、隣国との対話を通じて解決をすべきだ、と思ったに違いない。 本書が提示するように、韓国の二人の現代小説家、コン・ソンオク(공선옥)とシン・イヒョン(신이현)は韓国語に翻訳された茨木の詩と出会い、「わたしが一番きれいだったとき(내가가장 예뻤을 때)」というタイトルの小説を執筆した。いうまでもなく、茨木の日本語詩は、韓国語に翻訳されてもその精神を失うことなく、隣国の他者に響いているのである。本書は、異文化としての「韓国」との対話の記録であり、優れた異文化交流の実践例である。韓国語講師として勤めている評者は、韓国語を勉強する日本人の学生から「日本語がうまい韓国人は多い気がする。でも韓国語がうまい日本人はそれほど多くない。だからこれから勉強していきたい」という意見をしばしば耳にする。かつて茨木のり子が「ハングルへの旅」を始めた地点に、今の日本人が立っている。(い・すんじゅん=愛知学院大学非常勤講師・日本近現代文学・文化史)★きむ・じよん=立教大学兼任講師。韓国ソウル市生れ。二〇一九年立教大学大学院文学研究科比較文明学専攻博士後期課程修了。修士論文は「尹東柱の翻訳問題からみる日韓関係」。博士論文は「茨木のり子における韓国」。一九八四年生。