――エンパシーはアナキズムか――栗原裕一郎 / 評論家週刊読書人2021年9月3日号他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ著 者:ブレイディみかこ出版社:文藝春秋ISBN13:978-4-16-391392-6 数年前、ポール・ブルーム『反共感論 社会はいかに判断を誤るか』(高橋洋訳、白揚社)という本が話題になり、私も買い求めた。掘り出すと半分あたりまで付箋が貼られていた。そのへんで投げたらしい。共感は善ではない、共感こそが社会に害をもたらす元凶なのだと、常識をバーンと引っ繰り返して論じていくスタイルに「逆張り」的なものを感じたのだろう。 ブレイディみかこの新刊『他者の靴を履く』を読んで、『反共感論』にイマイチ乗れなかった原因が、訳語の問題だったことがわかった。「共感」と言われると我々は「シンパシー」と解釈してしまうが、ブルームが前提に置いている「共感」は、「エンパシー」なのである。 エンパシー。耳慣れない言葉だ。ブレイディが本書を書いたきっかけも、日本では使われていなかったこの言葉を、前著である『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮文庫)にちょこっと登場させたところ、予想もしない反響が寄せられたからだったそうだ。彼女の息子が通う英国の中学校には「シティズンシップ・エデュケーション(定訳がないが政治教育、市民教育といったあたり)」の授業があり、その試験に「エンパシーとは何か」という問題が出た。息子は英語の定型表現を利用して「自分で誰かの靴を履いてみること」と回答した。 靴とは「他者の人生であり、生活であり、環境であり、それによって生まれるユニークな個性や心情や培われてきた考え方」であり、それを履くとは「その人になったつもりで想像力を働かせてみる」ことである。このエピソードが日本人の読者にビビッと刺さったわけだ。「エンパシー」は、英英辞書にはこう書かれているそうだ。「他者の感情や経験などを理解する能力」「能力」が重要である。つまりエンパシーは、教育や訓練で身に着けることのできる「理性」と見なされており、「感情」の働きであるシンパシーとはその点が大きく異なるのである。 東京オリンピックでは「多様性と調和」が強調されたが、強調されるのは相反する現実があるからだ。分断と対立、差別と排除など不寛容を今の日本社会に探すのに労はない。読者にエンパシーが刺さったのは、閉塞感を打破する言葉だと感じられたからだろう。 たしかにエンパシーは多様性の時代を生きるために意義を持つ理念だが、それだけで万事うまくいく秘策ではない。落とし穴も探りながら、一段深いところへ認識を進めること、それがブレイディの本意だろう。ブルームをはじめとするエンパシー懐疑論者の説をくまなく検討しているのはその意識の現れだろうし、緊縮政策やトランプ前大統領の強権に人々が唯々諾々と追従してしまった現象に「エンパシーの罠」を見出すことなどにも、彼女が積み重ねてきた議論の展開を確認できる。 なによりブレイディらしいのは、エンパシーは結局アナキズムなのだと、意表を突くようでいながら納得せざるをえない地点へと読者を誘っていくところだ。「わたしがわたし自身を生き」ながら「他者の靴を履く」こと。「他者の靴を履く」ことで眼前の世界に囚われない、もっと広くてもっと違った世界へ想像力を働かせること。それこそが民主主義なのではないかと彼女は問う。 そんな問いがお題目に留まらないのは、ブレイディがあくまで「地べた」、言い換えれば混乱を生きる衆生の視線を手放さないからだ。彼女の本をベストセラーリストに載せていることを、読者はぜひとも誇るべきである。(くりはら・ゆういちろう=評論家)★ブレイディみかこ=ライター・コラムニスト・保育士。一九九六年から英国ブライトン在住。著書に『子どもたちの階級闘争』『女たちのテロル』『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』『ブロークン・ブリテンに聞け』『女たちのポリティクス』など。一九六五年生。