――まなざしが私たちに問うもの――國森康弘 / 写真家週刊読書人2021年2月19日号今日という日を摘み取れ 渋谷敦志写真集著 者:渋谷敦志出版社:サウダージ・ブックス 不条理な世界に生きる人の閉ざされた心の扉を、精一杯の勇気を振り絞って、たたく。自らの心身も削られながら、カメラを手に、目の前にある人のまなざしを受け止めようとする。越えられないはずの境界線があいまいになったとき、目に見えない何かが、写る。そんな写真を、祈りを込めて折り重ねた、集大成ともいえる写真集である。二十余年にわたり世界中の紛争地や困窮地域で出会った、「犠牲者」「難民」「被災者」「患者」「少数民族」「日雇労働者」などと呼称される属性に閉じ込められた人々にカメラを向けた。大阪・釜ヶ崎、福島・南相馬はもちろんソマリアやウガンダ、南スーダン、カンボジアなど私が訪れた地で撮られた写真もあり、想いが巡った。寿命を全うできずに死を強いられた人たちの姿が私の心に刻まれている。 南相馬。震災で八歳の愛娘を捜索の末に見つけ亡きがらを抱いて遺体安置所に連れて行った父親は、三歳の息子と両親までも失った。渋谷はその男性にレンズを向ける。越えがたい境界線に立ちすくんだ。だが、ファインダーの中の澄み切った相手の眼に、はっとする。愛する亡き人の、肉体はなくとも共にいる、見えないけれど感じられる、そんな存在に注がれる男性のまなざしに焦点を合わせたとき、何かが写った……。 戦争や貧困、災害、差別、感染症といった困難下で、しかしそれでも、今このときを生きようとする一人ひとりの生のありように、写真家は惹かれたのだ。困難の種類でもない、外部者が勝手にくくる属性でもない、ありのままの「あなた」を、撮る。ありのままの「あなた」にありのままの「わたし」が出会えたとき、初めて境界線を越えられるかもしれないと。 あえてここで平たく言わせてもらえば、写真は写す者と写る者の共鳴による「共同作業」、両者が交わる「交差点」。ただ、それだけでは終わらせない写真があると、私は思う。ありのままの両者が交差した瞬間、まなざしは写真からすっと透き出でて見る者に迫り、問いかけてくるのだ。「あなたの境界線はどこにある?」 これを受けて、見る者が何らかの行動を起こすとき、写真は三者の共同作業となる。 渋谷の写真は、優しい。目を凝らすほどに写る者のまなざしが見えてくる。写す者の優しさと写る者への敬意、いのちへの尊びを感じる。文章においても、たとえば、「先進国」や「発展途上国」のような傲岸不遜、厚顔無恥な言葉も出てこない。写る者はある意味、生存者。彼、彼女らの背後に何十何百倍もの死者がいることを知ってほしい。自分が医療者なら眼前のこの子を救えたかもしれないという無力感と罪悪感、そして不条理の根源を問わねばならぬ写真家としての使命感に、己を差し出す。過酷な現場で精神的なストレス、不眠や抑うつ的な症状に苛まれながらもカメラを抱く、その情に頭を垂れる。 世界各地で写真を撮るずっと以前から、自身が悩み、もがき、苦しみ、傷つき、踏ん張ってきたのではないだろうか。本書にも書いてある。想像を絶する人生の時間を生きてきた誰かと出会い、写真を撮ることが、自分が人間であることを証す、自分なりの戦い、だと。だからこそ、写る者は、ありのままの「渋谷」に写されたのではなかろうか。 私自身もいのちの有限性と継承性を主題に看取りや紛争の場で写真を撮らせて頂いた。眼には見えないが、そこに確かに在る何かを感じながら、それを写し込めたらと願いながら。生きんとする力、いのちのほとばしり、……魂の海。授かったいのちを世界中の誰もがまっとうして、次の世代にたすきを受け渡して逝く、慎ましくも尊厳をもって皆が共に生きられる世界を目指している。 渋谷は相手が少しでも幸せになるよう、祈りを込めてシャッターを切る。目指すは、境界線のない世界。現実を分類してわかった気にならない、他人事として遠ざけない。「わからないままに、何かと何かをわけずに、わかりえない何かとまなざしを交わし続ける場に、『共にいられる世界』を求めてゆく」。渋谷という写真家の生き様だ。(くにもり・やすひろ=写真家)★しぶや・あつし=写真家。MSPフォトジャーナリスト賞・JPS展金賞、視点賞などを受賞。現在は「境界を生きる人びとを記録し、分断を越える想像力を鍛えること」をテーマに世界各地で撮影を続けている。著書に『まなざしが出会う場所へ』『回帰するブラジル』『希望のダンス』など。一九七五年生。