――知の大衆化をなす「普遍人」は可能だったのか――渡邊史郎 / 香川大学教育学部准教授・日本近代文学週刊読書人2020年6月12日号(3343号)夏目漱石と帝国大学 「漱石神話」の生成と発展のメカニズム著 者:大山英樹出版社:晃洋書房ISBN13:978-4-7710-3260-6本書は、「第Ⅰ部 漱石の文壇登場とその認知のされ方」、「第Ⅱ部 帝国大学出身者だけを描く作家」、「第Ⅲ部 漱石死後の神話生成」として構成され、漱石が生前からいかにイメージされ読まれてきたか、それが現在にまで延長されたのは何故か、を丹念に追おうとしたものである。作家に対する「先行研究」の積み重ねが学問を形成すると信じられた幸福な時代があったのかは分からないが、九〇年代以降、作家に対する関心自体を歴史的に意味づけようとする研究が簇生(そうせい)している。それが多くの先行研究の存在自体を再審するのか、有名作家を愛でる社会自体に対する検討に向かうかは人によるが、本書の場合は、後者の体裁をとりながら、メッセージとしては前者を志向する如くである。 本書の最大の特徴は、「漱石神話」の生成を、生前の漱石自身を含んだ江藤淳までの、漱石(あるいは帝国大学)をめぐる言説闘争の帰趨を基盤にした、戦後の文学部の卒業論文や投稿論文、作品論・テクスト論への相性のよさといった平凡な諸事情に見ていることである。本書の議論は見た目程単純ではないが、諸事情が「メカニズム」と名指されているところから、著者はおそらく、それを漱石の作家性・人間性からというより、帝国大学の権威をめぐる日本社会のあり方から出現した〈必然性〉と見ている。本書は即ち、日本社会論の趣を持つのであるが、それを、平岡敏夫、柄谷行人、蓮實重彦、小森陽一、石原千秋、大杉重男などの文学的研究の諸権威に対する検討をほぼ行わないことで徹底している。それが先述した、先行研究の存在自体を再審するというメッセージである所以だ。潔い程の思い切りの良さである。確かに漱石が、帝国大学と大衆をめぐる複雑感情(端的に言えば、大衆にも受けいれられることを夢みるインテリの自意識である)をくすぐる存在であることは、多くの人が最初意識するのだろうが、一旦漱石の作品(とその研究)の迷宮にとらわれるとそれを忘れがちになることは確かで、本書の如き初心を忘れぬ勇気は誰かが持つ必要があったのだ。本書の内容は、今後多くの論者によって再検討が加えられると思うが、その志は評価すべきである。 一方、帝国大学との関係で毀誉褒貶にさらされた漱石が、それにしても何故かくも読まれるのかを再考したと思われる「第八章 漱石評価の確立期」は興味深い。そこでは、学者、ジャーナリスト、作家などの多彩な顔を持つ「大きな文学者」(戸坂潤)、「予備知識のない読者」に向かった作者(伊藤整)などの観点が再考されている。この観点に深入りはしていないが、著者の本当の問題意識は、近代日本にとって知の大衆化をなす「普遍人」は可能だったのかという問いであったように思える。この問いは漱石の対象化にとどまる問いではない。おそらく、漱石と自然主義、漱石と鷗外といった、我々の自意識の反映である分割に拘らないことはもちろん、近代日本社会に対する視点の脱近代化が必要ではないかと思われる次第である。(わたなべ・しろう=香川大学教育学部准教授・日本近代文学) ★おおやま・ひでき=青山学院大学非常勤講師・日本近代文学。