――啓蒙よりも希望を語る。謙虚に、しかし大きく出る。――福間健二 / 詩人・映画監督週刊読書人2020年6月19日号(3344号)世界の果てまでも 大田美和思考[エッセイ]集著 者:大田美和出版社:北冬舎表現者。どんなジャンルでも、いま、元気なのは、どういう人たちだろう。評者の考える指標のひとつは、「外」へ向かう力をもっているかどうかだ。ジャンルの外、領域の外、既成の価値観の外、さらにはこの日本という国の外。自分のいる場所を確かめながら、そういう、さまざまな「外」を意識して仕事をしていること。内輪の、あるいは自分の、なにかを守ることよりも、断然、それである。醜いのは、ジャンルの内側でしか通用しない権威におもねるような態度だ。 詩歌にかぎって言うと、あいも変わらず、そんなのが大手をふるっている。たとえば、ストイックな「孤」を装いながら、お墨付きの美意識や思考方法に囚われている。動きたくないだけじゃないか、と言いたくなる。 前置きが長くなったが、歌人大田美和は、そういうのとは対極にいる表現者だ。 「文学は冷たく広大なる渚ひっかいたあとを残して死にたい」と彼女はかつて歌った。「何もかも手に入れたくてわたくしは一生懸命のんびりしてる」とも。 ときにはナイーヴすぎるほどに、自分にも、世界にも、望むことと猶予すべきことをはっきりさせてきた。育児や病気の克服など、プライヴェートなことからも鳴らすべき音を逃さない。英文学の教授でもあり、なんと高校の校長先生も兼務している。実作、研究、教育、人と社会への働きかけ。そのどれをもなおざりにしない。しかし性急すぎない。 本書は、「思考集」と銘打たれているが、彼女のそうした歩みの、折々の報告も含む。よく動いているなあ、と感心する。人との出会いから得たものを着実に活かしてきたのだ。 研究のために滞在したイギリスのケンブリッジで、彼女は痛感する。「詩人であるためにも、研究者であるためにも、よい授業をするためにも、精神の自由の獲得ほど重要なものはない」と。生きる現実のなかでの、その「自由」の具体化。そのためのハツラツとした思考がここには集められている。 彼女の実践を支えているものを考えてみた。「生涯の師」であり、「インテリゲンチャとしての孤独をかかえながら、絶えず民衆に語りかけてきた」と彼女が評する歌人近藤芳美の姿勢のまともさを、受けつごうとしていること。そして、「革命を何千回やっても世界は変わらない」と悟りながら「未来が現在とは見違えるように変わる可能性」を否定していない、地に足のついたフェミニズム。どちらも、もちろん大きいが、それだけではない。 目の前にある事物への関心と感受性が、ひとつの自然な心の動きを呼び込む。そのことが独特に大事にされていると思う。その短歌の「チョコレートの銀紙きらきら落ちて行く病棟の夜の青いバケツに」などによく見えていることだが、言葉がそうであるように、行動もまたその心の動きから瞬間的に把握されているのだ。 「アジアへ」「日本の短歌へ」「ヨーロッパへ」「表現へ」「わたしへ」と呼びかける対象を章題で明示する五部構成で、『世界の果てまでも』のタイトル。カバーには「ひらく、つながる、うまれる。」の副題も。啓蒙よりも希望を語る。謙虚に、しかし大きく出る。関心の広さを示すように話題は多岐にわたる。焦点を結びきれないところも、これからの展開を期待させる。「外」へと向かうその思考と感受性は、いまこそ、なんとかしなければ、という切実さに裏打ちされている。(ふくま・けんじ=詩人・映画監督) ★おおた・みわ=歌人。中央大学文学部教授・近代イギリス小説・ジェンダー論。著書に歌集『きらい』、『水の乳房』『大田美和の本』など。一九六三年生。