――闇の中から光の下に持ち帰ったものは、いま――山田文 / 翻訳者週刊読書人2020年7月24日号(3349号)サークル・ゲーム著 者:マーガレット・アトウッド出版社:彩流社ISBN13:978-4-7791-2683-3本書は一九六六年に刊行されたマーガレット・アトウッドの第一詩集で商業出版デビュー作の邦訳である。 ある写真。左手に木、右手に坂と木造の小さな家が写っていて、奥には湖と低い丘のつらなりが見える。本書の冒頭に置かれた「これはわたしの写真」で描写されるのは一見ふつうの風景写真だ。しかし、かっこで括られた語り手の声がここに割って入る。「(この写真が撮られたのは、次の日です/わたしが溺れ死んだ日の。/わたしは湖にいます、真ん中に/写真の、水面のちょうどしたに。/……/時間をかけて見つめつづけると、/いつか/わたしが見えてくるでしょう。)」 冒頭で示されるこのイメージ、〝水面のした〟、目に見えないところに潜んでいる何ものかが姿を見せるというこの像が、本書に収められた二十八篇の詩を束ねる通奏低音となる。水底、足もと、地中深く、背後、地階、内膜、間隙、夢、水の膜――あらゆる場所からわたしたちが見ていないもの、見ようとしないものが姿をのぞかせる。それは文明や都市によって覆われた外なる自然と内なる自然であり、過去であり、暴力であり死だ。また、人間関係とりわけ男女の関係の背後にある権力や抑圧やすれちがいだ。 前半の十三篇の多くでは、文明や都市に生きる人間主体が前景にあり、その下や背後から失われたものや覆い隠されたものが姿をのぞかせる。それとは対照的に後半の十四篇の多くでは、失われたものや覆い隠されたものが前景化してそれらが人間主体に働きかけてくる印象を与える。そしてそのあいだに置かれた表題作「サークル・ゲーム」が全体を支える柱となる。 子どもたちが手をつないで輪になって歌っている。しかし「互いに声を合わせることはない」。真ん中の空間は空虚で、そこには「なんの喜びもない」。「重要なのは」「くるくる回ること」それ自体だ。 意味や喜びから切り離されたルールや〝ゲーム〟にひたすらしたがう疎外感や抑圧感、それをわたしたちは子どものときから絶えず経験している。日々それを経験しながら生きている――はっきりとそれをとらえて言語化できていないとしても。 その息苦しさが、この作品で〝円環(サークル)〟のイメージにきわめて強力に結晶化される。さらには〝ガラスケース〟や〝地図〟が人間関係とりわけ男女関係を閉じこめ固定する規範の象徴として提示される。そして作品はこう結ばれる。 「ガラスケースも全部粉々にしたい、/地図をすべて消し去りたい、/砕いてしまいたい/唄いながら回転しつづける/あなたの子どもたちを守る卵の殻を。/円環(サークル)が/壊れてほしい。」 アトウッドは著書『死者との交渉――作家と著作』で次のように語る。「著作は暗闇、そしてその中に入って行こうとする願望、いや恐らく強迫観念、そして運がよければそこを照らし出し、闇の中から何かを光の下に持ち帰るということだと思われるのです」。『サークル・ゲーム』で半世紀以上前にアトウッドが光の下に持ち帰ったものは、いまなおその力を失っていない。(出口菜摘訳)(やまた・ふみ=翻訳者) ★マーガレット・アトウッド=カナダのオンタリオ州オタワ生まれ。本書でデビューし(カナダ総督文学賞)、『侍女の物語』(カナダ総督文学賞、アーサー・C・クラーク賞)『寝盗る女』(コモンウェルス作家賞)『昏き目の暗殺者』(ブッカー賞、ダシール・ハメット賞)、二〇一七年にはフランツ・カフカ賞を授与される。一九三九年生。