――コロナ禍でのオリンピック延期を分析する――塚原東吾 / 神戸大学教授・科学史・科学哲学週刊読書人2020年7月24日号(3349号)東京オリンピックの社会学 危機と祝祭の2020JAPAN著 者:阿部潔出版社:コモンズISBN13:978-4-86187-166-5コロナ流行の継続を懸念して、東京オリンピックの一年延期が宣言されたのは、三月二四日のことだった。すでにそれ以前から、スタジアム建設の費用やエンブレム疑惑は言うまでもなく、ボランティア動員や暑さ対策、それにマラソンの札幌開催のことでも、何かおかしいと感じさせられることが多い。2020と語呂の良い割には、東京オリンピックにはどうにもちぐはぐな印象が付きまとっていた。露骨なメディアコントロールのなかで繰り返されるメダルへの期待は、おもわずそれは無理やろとつぶやいてしまわざるをえないレベルだった。「感動ポルノ」が浴びせかけられるほど喧伝されていた。国家総動員で行進して向かっていたはずの2020東京オリンピックは、しかし、あまりにもあっけなく延期が決まった。これはコロナという不可視の「生―政治」による。どうも以前から続いていた、オリンピックを語る際の居心地の悪さが、コロナによって増幅されている。コロナが作り出した奇妙な時空の歪みのなかで、オリンピックをめぐる言説の陳腐さが、ことさらに上塗りされている。 このことを、どう考えればいいのだろう。阿部潔による本書は、それを真摯に検討した一書である。阿部はオリンピック延期をめぐる事情を真っ芯で受け止め、この「おかしく・滑稽で・唐突なありさま」が、いつの間にか「常態化していたという事実」に本格的に向き合っている。待ちに待った世紀の「祝祭」ではなく、そこにはウイルスという「危機」がやってきた。いったい、これはどういうことだ? 阿部がこれに答えるための道具立てとしているのは、表題にあるように「社会学」である。より具体的には〈時間〉をめぐる歴史についての分析と、現代日本の〈ナショナリズム〉についての検討である。 前者については、まずは第2章で、オリンピックで喧伝されている「希望の未来」、「過去の栄光」、そして「レガシー」など、鍵となる概念がどのように利用されているかを剔抉している。その鍵を器用に使い、絞りとフォーカスを一九六四年(第3章)、一九四〇年(第4章)のオリンピックへ操りながら、背後にあるさまざまな仕組みを見せてくれる。この部分は丁寧な実証研究による歴史社会学というべき分析で、知の遠近法によって、たくさんの優れた指摘がある。なかでも2020東京で「オリンピック・レガシー」という言葉を使うことにはトリックがあるという。いわば歴史を脱色したり、また換骨奪胎しながら自らの道を邁進するための地ならしに使っている。つまりこのことで「過去」を「先物取引している」と指摘している。この提示は、歴史学の末席を汚す評者にとっても、留飲の下がる分析である。 後者については、多くの統計を使い、ソーシャルメディアの役割や、NHK世論調査、さらに阿部の研究グループによる独自のアンケート調査の分析がされている。(5章とエピローグ)ここでナショナリズムについて、阿部は、感覚的な心情やイメージ、雰囲気・同調をもとめる「集合的な情動」が、テクノロジーによる手段の変容とあいまって、より重要になっていると論じている。そこでは自己肯定、自己愛が根強く存在しており、「ナショナリズム」につながる同一化の欲望や「不安」が底流にあること、権力の陰が見事に虚飾され隠蔽されていることを指摘している。これはオリンピックについての日本社会の自画像に含まれるより複雑な「症候」を浮かび上がらせるための分析だという。その結果分かったのは、「事実とはどこか切り離されたセンチメントに根差した現状と自己の肯定」という病状であり、「ポスト2020」日本の姿は憂鬱なものに映らざるをえないと結んでいる。この社会学的分析についてはやや留保がある。ここには重要な「問い」があることは分かる。だが「答え」はない、というか、鮮明な問いだけが多くのデータとともに示され、そのまま放置されたような読後感がある。阿部には、その「憂鬱なる2020のその先」について社会学たる知はどこを指し示すべきか、より深い教えを乞いたい。 阿部によるオリンピックの歴史社会学的分析の発端は、管見だが、小笠原博毅・山本敦久による『反東京オリンピック宣言』(2016)にあるようだ。その意味で阿部は、小笠原が命名しているようなオリンピックの「どうせやるなら派」や、「コロナ転向派」ではない。まさに直近の歴史が証明したように、オリンピックを真摯に捉え、思想と志操の筋を通してきた者であり、同じく逆風のなかをよく耐え、オリンピックのあり方の根本に迫ろうとしてきた小笠原・山本、そして鵜飼哲らと切磋琢磨し、その考察を重ねてきたのだろう。コロナによる延期、そして中止もささやかれる中で、かならずしも転向そのものが悪いとは言わないが、(オリンピックの場合特に、推進派や容認派が、反対派もしくは中止派に回るのは、望ましいことだが)、メディア総がかりでのオリンピック礼賛と同調圧力にもめげず、このような取り組みを維持してきた者たちの言葉や思考は重く受け止めないといけないだろう。 最後になるが、阿部のこの本と好対照なのは、本書とほぼ同じタイトルを持つ『2020東京オリンピック・パラリンピックを社会学する日本のスポーツ文化は変わるのか』(二〇二〇年四月、日本スポーツ社会学会編)である。これは最悪のタイミングで出版されてしまった本だ。こちらのアプローチは、不安や憂鬱、そして情動や同調圧力(そしてもしかするとオリンピック利権)に泳がされていて、同情を誘うほど阿部の分析に当てはまってしまっている。「スポーツ社会学の魅力を発信したい」と編まれた論集らしく、スポーツ社会学の学会が総力を挙げた本であるはずなのに、阿部はおろか、オリンピックを真摯にとらえている小笠原・山本や鵜飼、さらに最近ではボランティア動員に舌鋒を発揮している本間龍らの仕事の引用も、ほとんど見あたらない。(辛うじてボランティアについて論じた金子史弥の論考に、阿部と小笠原・山本の言及があるだけである。)スポーツ社会学という分野には、根本的なところから物事を考え直そうという学者たちの意見に耳を傾けるとか、反論を尊重するという基本的な礼儀はないのだろうか。物事を公平に見て、オリンピック利権や政治の介入、そして文化としてのスポーツの在り方を、正々堂々と、天下国家の権力にかかる課題として論じることに知性や文化の意味がある。どうもこの本の著者たちは、オリンピックを知的な課題として正面から受け止めることを回避しており、推進派に加担し忖度しているようで、これでは「スポーツ社会学」なる分野が魅力的な分野であるとはとても思えない。もしくは、この分野が持つのがそういう文化なら、「オリンピック・パラリンピックを社会学する」とか、「日本のスポーツ文化は変わるのか」とかいう表題に持つことが、皮肉にしか聞こえない。いくら自らで文化をのたまったとしても、その立ち位置ではなにも変わらんだろう。筆者が阿部の本の書評のために、類書を網羅し精査検証したなかでも、社会学を自称するこの本は、たいへん印象的であった。そのようにして見るなら、阿部の本の価値がいや増しに増して見えるのは、あながち不思議ではない。スポーツ社会学が総じて拝跪していたように、権力によって歪められた奇妙なる時空、そこにコロナが追い打ちをかけている状況は、まさに猖獗を極めている。自覚症状がなくとも、かなり重篤な知的怠慢や弛緩に陥っている場合も多い。阿部はそれに対して自前のフォースによる分析を加えることで、権力によって歪められた時空の底に蠢く不可視のものどもや、瀰漫する症候を看破した。これぞ社会学の学たる師表だろう。本書は、阿部による一種の「徳」の表出であると考えてもいいのだろう。(つかはら・とうご=神戸大学教授・科学史・科学哲学) ★あべ・きよし=関西学院大学教授・社会学。東京大学大学院単位取得退学。著書に『監視デフォルト社会』など。一九六四年生。