――「正義の不在」を問うフェミニズム文学――妙木忍 / 東北大学大学院准教授・社会学週刊読書人2020年4月10日号(3335号)女であるだけで著 者:ソル・ケー・モオ出版社:国書刊行会ISBN13:978-4-336-06565-0〈新しいマヤの文学〉(全三冊)一冊目の本書は、マヤ先住民女性作家ソル・ケー・モオ氏の作品である。翻訳者の吉田栄人しげと氏(ラテンアメリカ民族学が専門)は、二〇一八年に同じ作家の短編集『穢けがれなき太陽』(水声社)を翻訳し、日本翻訳家協会の翻訳特別賞を受けているが、その表彰式(二〇一九年十月)でのスピーチに私は驚かされた。吉田氏によると、実は本当に日本に紹介したい作品が別にあるというのだ。そして、二〇二〇年二月、満を持して出版されたのが本作『女であるだけで』である。本作品は、私の興味をふくらませるものだった。というのも、私は短編の一つ「生娘エベンシア」を読んだときに、自分らしく生きようとする一人の女性が日常生活の中で葛藤する姿に悲しみや怒りや希望を感じ、遠い国の出来事とは思えない不思議な感覚に襲われ、それ以来、彼女の作品と彼女に関心を寄せるようになっていたからだ。 本作品は、夫フロレンシオを誤って殺してしまった先住民女性オノリーナが、刑務所に入り、恩赦を受けて解放され、女性の弁護人デリアと別れを告げるまでが回想を含めて描かれている。夫から受けてきた暴力、細やかな心理描写、法の不備の指摘、オノリーナの味方をして抵抗する勇気を与えようとする先住民女性ティバの登場、女たちが共通する困難を発見してお互いに助け合おうとする過程など、見どころがいくつもあるが、他者への想像力を持つことや社会のあり方自体も大きなテーマになっているように思う。 というのもオノリーナは、判事に「あんたが悪いわけじゃない。あたしに謝らないといけない人は他にいる。あんたの手に負えるような問題じゃないんだ」と述べる。デリアは言う――「あの女性は罪を犯した張本人ですが、彼女を犯罪者に仕立てたのは私たちみんなですから」。つまり本作品は、女性をとりまく社会構造自体を問題にする。オノリーナがフロレンシオに対して「多分、心の中に平静でいられない何かの苦悩を抱えていたんだと思う」と考えを巡らす場面もある。男性もまた社会構造の犠牲者であることを暗に示す。 私は、ケー・モオ氏が来日した二〇一九年九月、彼女の話を聞きたくてメキシコ大使館と京都外国語大学を訪れた。京都の講演会で彼女は、女性に対する人権侵害、教育の重要性、貧困の女性化、支援行政による事態の悪化など先住民の女性にのしかかる社会的な「おもし」に触れた。先住民女性は社会的放置と弱者性の脈絡に置かれているのだと彼女は言う。貧困の女性化は経済的なことだけではなく、そこには「正義の不在」も加担していると彼女は鋭く指摘する。本書は先住民女性の悲しみと怒りを込めた自らの社会に対する告発でありながら、私たちが暮らす社会を直視することの大切さを気づかせてくれる。彼女が京都で、「作家は自らが属す世界から隔絶した存在ではありません。むしろ、人間が生きていく上で必要とするものを生み出す思想の継承者です」「私たちが生きる現在をよく観察し、そこに積極的に関与することで初めて未来を可視化することができるようになります」「先住民作家は社会的なことに責任を負う一人の人間として夢を語らねばなりません」と述べたことを加味すれば、彼女は社会を直視するときにも夢や希望を持つことの大切さを作品に込めていると言えるだろう。 さらに彼女は、先住民文学作家としてすでに評価されている他の作家たちから彼らの文化的キャノンの中に留まるべきだと言われたことにも触れ、「私は彼らの助言に従いませんでしたが、私は歩むべき道を間違っていなかった」と述べた。今後もそれを変えないと言う彼女のまなざしは、自信と信念に満ちていた。規範にとらわれない彼女のとびきりの笑顔を見ていた私には、マヤ文学とフェミニズム文学が交差する傑作である本作は、いっそう輝いて見える。(吉田栄人訳)(みょうき・しのぶ=東北大学大学院准教授・社会学) ★ソル・ケー・モオ=小説家、通訳者。著書に『テヤ、女の気持ち』『女であるだけで』(ネサワルコトヨル賞)『太鼓の響き』『グデリア・フロール、死の夢』など。二〇一九年『失われし足跡』(未刊)で南北アメリカ先住民文学賞を受賞。一九七四年生。