時代はようやく阿部和重に追いついた――マゾヒスティックな「ロマンス」は、同時に崇高でもある池田雄一 / 批評家週刊読書人2021年6月18日号ブラック・チェンバー・ミュージック著 者:阿部和重出版社:毎日新聞出版ISBN13:978-4-620-10854-4 陰謀論を語るアメリカ大統領、差別的発言や取締り行為といった敵対の祝祭を享受するモブ、感染者数をめぐっての数の祝祭、死をはじめとする出来事の価値が下落。こうしたことは、阿部和重がデビュー時から描いてきたことである。描いてきたからこそ、この小説家は不当に評価されてきた。パンデミックに付随する状況により、時代はようやく阿部和重に追いついてきたのだ。あの「トランプ大統領」の「非嫡出子」を自称している男が、中国を経由して北朝鮮に入国し、あの「金委員長」に極秘のファイル――金正日が書いたとされる映画評論なのだが、継承問題をめぐる暗号として書かれている――を渡そうとするという、まさにQアノン的な状況からはじまる最新作『ブラック・チェンバー・ミュージック』もまた、当の小説家ならではの作品だと言える。ではこの阿部和重ならではとは、いったい何を意味するのか。 この問題を考えるにあたって、まずは『ガリヴァー旅行記』の検証からはじめよう。参照するのは花田清輝によるスウィフト論である(『復興期の精神』講談社)。この「ガリヴァー」において重要なのは、ラピュタやフウイヌムではなく、何よりもまずリリパットとブロブディンナグへの冒険なのだ、という議論を花田は展開している。「ガリヴァー」が画期的なのは、人間という存在が「量」に還元されることの不自然さを寓話にしているからだ、と花田は述べている。とりわけ第一と第二の旅行において、純粋に量的な差異という観念がサイズのみが違う人間へと形象化されている。たしかにリリパットは人間も建物も動物もすべてが小さく、ブロブディンナグはすべてが大きい。にもかかわらず住人やその環境は旅行者と質的に変わることがない。「ガリヴァー」以前の巨人といえば、古代ギリシア神話における「タイタン族」や、あるいは「ダイダラボッチ」のように、何らかの質的な差異がともなっていた。「ガリヴァー」に登場する小人や巨人には、こうした質的な差異がない。リリパットやブロブディンナグに子供が反応するのは、そこに量に還元された差異が形象化されているからなのだ。 われわれは「ガリヴァー」以降の状況に慣れすぎていて、これが異常であることに気がついていない。しかしたとえば、ウルトラマンのような巨人型ヒーローが、一般的な人間をおなじ外見で登場することを想像してみよう。おそらく何か居たたまれない気分に支配されるはずである。「ガリヴァー」は最初から最後までこの気分を描いた作品なのだ。そして質的な差異が消失した状況においては、超越的な領域も消失することになる。 そうした状況に抵抗するかのごとく、「ガリヴァー」以後の芸術は、自らに固有の質量を獲得するための模索の段階に入る。絵画において、それはグリーンバーグが「モダニズム」と名づける流儀へとつながる。そしてモダニズムの文学においても、自身に固有の質量として「意識の流れ」が仮構されることになる。 ところが、阿部和重の作品は、こうした芸術における先鋭化への努力など、まるで最初からなかったかのような様相を呈している。その様はエンターテイメント的であるという表現では不十分である。もっと具体的にいえば、阿部の作品はマンガ以上にマンガ的であるという表現がふさわしい。それは何故なのか。 すべてが「量」に還元された状況において、新しいジャンルが登場する。小説、映画、そしてマンガがそれである。小説は、質的な差異を欠いた「活字」によって成立している。音声や手書きの文字には質的な差異がやどっていた。活字によって文字は規格化され操作可能なものになる。映画においてもまた、毎秒二四フレームでスクリーンに投影されるフィルムによって、均質で操作可能な空間が表象される。質的な差異は、カットとカットの非連続性に変換される。マンガもまた空間的に並置された複数のコマによって構成されている。ここでも質的な差異はコマとコマの不連続に変換される。これらのジャンルを芸術と呼ぶことにためらってしまうのは、それらが超越的な審級が失効した世界に登場してきたジャンルだからである。そもそも「ドン・キホーテ」の主人公が風車を巨人だと思い突撃していったのも、質ではなく「量」の判断が下されたからである。ここでは超越的な領域が消失した状況において、何らかの価値を創造するという作業が求められることになる。 こうした状況を、ベンヤミンの読者ならば「複製技術の登場によるオーラの喪失」という用語でまとめることもできるだろう――事実これら三つのジャンルは「プリント」されることが前提となっている。しかしそうしたまとめ方では、世界が「量」に還元されることの不自然さはみえてこないのだ。* * * そこから今日的な状況について考えてみよう。日和見的なふるまいにより人に致命傷をおわせるという新型ウィルスの登場により、世界中のあらゆる出来事の意味が宙吊りにされている。たとえばオリンピック代表のようなシンボル労働の従事者は「そもそもあなた方は何なの」という冷めた視線にさらされることになる。ここではさきの思考実験における「居たたまれなさ」と同じ状況が生じることになる。この状況に何らかの価値をみいだすこと。すなわち、ここで問題になっているのは「マゾヒズム」なのである。 いったいマゾヒズムとは何なのか。それは、すべてが「量」に還元された世界において、人間の創意工夫によって、失われた超越的な審級、あるいは「聖なるもの」を組み立てていこうという試みのことである。典型的なマゾヒズムにみられる「契約」と「プログラム」は、そのための小道具である。 この最新作においても、マゾヒズムのモチーフが全面的に展開されている。大麻取締法違反による逮捕により映像作家としてのキャリアを断たれた「横口健二」は、知人である指定暴力団の会長「沢田龍介」から、件の映画評論を探しだすよう依頼を受ける。記事を探しだす過程において、幾多の「助力者」が登場したり、貴婦人ならぬ北朝鮮の工作員の女性との宮廷恋愛的な転移関係が出現したりと、中世ヨーロッパ的な「ロマンス」のモチーフが展開されている。そして量化された世界において、ロマンスは必ずやマゾヒズムとむすびつくのだ。その点、芸術志向の小説がサディズムと親和的であるのと対象的である。横口は、たしかに沢田からの言葉責めを受けたり、倒錯的な助力者から理不尽な試練をあたえられたりしている。さらには拷問のために身体を拘束されもしている。しかし最も重要なのは、この物語を構築している話者の語りそのものが読者の知覚を宙吊りにさせるようなトーンを帯びていることである。 それだけではない。この最新作が、最新なだけでなく傑作でもあるのは、このマゾヒズムの主題が、今日的なあり方のモラルへと昇華されている点にある。北朝鮮の女性と横口は、たしかに宮廷恋愛のような関係にある。しかし横口のこの感情は、恋愛というよりはむしろ隣人に対する親切心に近いものである。名前が伏せられているため、便宜上「ハナコ」と称されるこの女性は、たしかに貴婦人たる気品にあふれている。しかし横口はそれに魅了されてというよりは、偶発的な何かに促されて、命がけでハナコ・・・を救おうとする。あげく横口はハナコ・・・の「道具」となるべく、物語へと身を投げることになる。その無様な有様は、たしかにマゾヒスティックなのだが、同時に崇高でもあるのだ。(いけだ・ゆういち=批評家)★あべ・かずしげ=作家・映画評論家。一九九四年に「アメリカの夜」で群像新人文学賞を受賞しデビュー。『無情の世界』で野間文芸新人賞、『シンセミア』で伊藤整文学賞・毎日出版文化賞、『グランド・フィナーレ』で芥川龍之介賞、『ピストルズ』で谷崎潤一郎賞を受賞。著書に『プラスティック・ソウル』『ピストルズ』『クエーサーと13番目の柱』『Deluxe Edition』『Orga(ni)smオーガニズム』など。一九六八年生。