「生きとし生けるものの世界」への飽くなき興味、憧憬と礼讃 八木寧子 / 文芸批評 週刊読書人2022年4月15日号 ボタニカ 著 者:朝井まかて 出版社:祥伝社 ISBN13:978-4-396-63617-3 その人の姿は、机の前ではなく、いつも野山にあった。豊かな植物たち、彼に言わせれば「未来につながる種子=ボタニカ」の宝庫である「景色」の中に。 トレードマークは蝶ネクタイ。頭に洋帽、下は洋袴にゲートルのスタイルで、「どこまでも、てくてくと歩く」。そして、「疲れたら木の根や胴乱(野外採集した植物などを持ち歩くための、肩からさげる容器)を枕に、草を褥にしばしまどろむ」。さらには、「雨が降れば草の葉を傘にして、濡れたら服を脱いで絞れば済む」と潔く、「そしてまた歩く」。 生涯をフィールドワークに捧げた植物学者、牧野富太郎。明治、大正、昭和を生きた彼の実り豊かな、波瀾万丈な、一本筋の通ったあっぱれな人生の四季。その調べを高らかに謳い上げた渾身の書だ。偉業を成したひとりの人間の足跡を濃密に編み上げた朝井まかての揺るぎない筆力。「評伝」とひと括りにできないその凄みに圧倒される。 土佐(現在の高知県高岡郡)の佐川町で造り酒屋を生業とする裕福な家に生まれた富太郎は、幼少の頃から植物に惹かれていた。「愛いなあ。なんでこうも、愛いがやろう」と、「草や花や木々」に喋りかけて日々を過ごしていた。 なぜそんな姿をしているのか、目の前の植物はどこから来たのか。名を知らぬ相手には自ら名づけ、より親密になる。その内奥には、「真実が持つ、その揺るぎない輝きに触れたい」という本能的な〝欲〟があった。それがすなわち彼にとっては〝生きる〟ことと同一であった。 実家は屋号を「岸屋」と称し、地元で知られた名家だった。富太郎の両親が早くに没したため、家は祖母が取り仕切っていた。とはいえこの祖母は後添えで血の繫がりはないものの、富太郎の気質をよく理解し、彼の振る舞いに何処か寛容であった。 岸屋は継がずに「植学を志す」と宣言し、退屈な小学校も自主退学。やがて実家の資産を湯水のごとく使い、書物のほか、採集、研究のための用具を購う。祖母に従い従妹と一緒になるが、家業は放って上京し、学籍を持たぬ身ながら東京大学理学部植物学教室への出入りを許される。そこで、豊富な資料や標本に触れ、植物分類学の研究を深めてゆく。 「採集」、そして採集を経た「腊葉(押し葉の標本)」作りが彼の基本であり最優先事項。学内政治はもとより世間的な名声にも関心がないながら、他の者にない秀でた部分が悪目立ちすることもあり、時に疎まれ、貶められもする。 ついには実家の身代を食い潰し、妻とも離縁。東京で見染めたスエ(壽衛)との間に子を次々となし、家計は常に火の車であった。それでも彼は学究の徒であり続け、何十万もの標本を作り上げ、植物学誌や詳細な植物図鑑の刊行に心血を注いだのだ。 彼の生涯に関わる植物学の祖のひとり伊藤圭介や学究仲間、ある時期研究を支えた年下の篤志家・池長孟のほか、南方熊楠、森林太郎(鷗外)ら。その人生の交錯の妙に驚かされる。 御一新、自由民権運動、日清・日露戦争、関東大震災、そして第二次世界大戦。歴史の大事もしっかりと描かれながら、あくまで前景に置かれるのは富太郎の研究の日々。 彼が晩年に呟く「惚れ抜いたもののために生涯を尽くす。かほどの幸福が他にあるろうか」という感慨は、著者自身のものでもあるだろう。 気配がした。平積みにした和書の表紙が蠢いている。律儀に漉かれた繊維の間から、薄茶色の小さきものが頭を出している。芽だ。頭を擡げ、伸びをし、葉を作る。たちまち淡い緑へと変じ、左右に軸を増やして伸びてゆく。(略) 聞こえる。葉が鳴っているのか、風が流れているのか。幾千の花が咲き、木々は露を含んで下草を濡らし、苔に雫を分ける。やがて散り、実り、種を弾く。花粉や胞子を飛ばす。光りながら、生命を受けては渡してゆく。 目の前の草木や花への素朴な問いから独学で知識を得て、後付けで学位を授かった〝植物博士〟。生涯で命名した種は二五〇〇以上、作成した標本は四十万にものぼる。だが、彼が終始もっとも強く抱いていたのは、「ただ知りたい。知り合いたい」という純粋な思い。「植学という学問名以外の意味」、「いや、もっと広く大きなもの。この、生きとし生けるものの世界」への飽くなき興味、憧憬と礼讃に違いない。 「富さん」と植物たちは彼に呼びかける。「ようこそ」「ほら、ここよ」と。見つけてもらうのを待っている種が世界にはまだまだあるのだ。 名誉も勲章も置いて胴乱だけを肩から提げ、蝶ネクタイをしめた彼の魂はいまも野山を彷徨っていることだろう。(やぎ・やすこ=文芸批評)★あさい・まかて=作家。『恋歌』で直木賞、『阿蘭陀西鶴』で織田作之助賞、『眩』で中山義秀文学賞、『福袋』で舟橋聖一文学賞、『雲上雲下』で中央公論文芸賞、『悪玉伝』で司馬遼太郎賞と大阪文化賞、『グッドバイ』で親鸞賞、『類』で芸術選奨文部科学大臣賞と柴田錬三郎賞を受賞。一九五九年生。