――校正の位置付けと実際の作業、言葉との関係――井上孝夫 / 校閲者・言語ジェネラリスト週刊読書人2021年8月20日号校正のこころ 増補改訂第二版 積極的受け身のすすめ著 者:大西寿男出版社:創元社ISBN13:978-4-422-93219-4 結論を先に書こう。この本はぜひとも世の人に読んでもらいたい本である。 出版業界人もさることながら、言葉を扱う仕事をしている人々、本と言葉に関心を抱く多くの市井の方々にこそ推薦したい本であると申し上げたい。 私自身も校正・校閲を四十五年続けて来た人間であるが、著者の大西氏とは異なり、六十五歳まで出版社の校閲部に勤めていた「内勤の校閲部員」である。大西氏は長年フリーランスの校正者(著書のタイトルに敬意を払い「校正者」と呼ばせていただく)を務め、近年は校正の手ほどきや心構えを教える活動も行っているという「自立したプロフェッショナルな校正者」である。世間から見ればさほどの違いは無いと思われるだろうが、仕事の環境や業務の性質などにはやはり差異があろうかと思う。読みながらそのことを時に感じたのは事実である。 全体に目配りの利いた構成になっている。校正作業の実際に触れながら校正の歴史を語り、校正作業の位置付けを説明する。さらにその奥にある言葉そのものへの深い思索、作者と編集者と校正者、そして読者、そして何よりも目の前にある「ゲラの言葉」そのものとの関係の考察。さらにデジタル化のもたらした変化と、将来に亘る変化への予測。さまざまな事柄についてとことん考え抜いた言葉が並んでいる。その考えに賛成するか否かに拘らず、一度は耳を傾けておくべき価値のある意見がぎっしりと詰まっている。同業者である私などは「こう考えていたのは私だけではなかったのだ!」と意を強くした個所がいくつもあった。 資料的な価値のある記述も多い。校正的作業の歴史を辿った個所を読みつつ、私はそういった事柄に無知だったと痛感したし、活字におけるユニバーサル・デザインの話なども勉強になった(ちなみに近年の日本語の縦組から横組への変容、という指摘には大いに同意する。私も以前から、日本語の横組表記の規則を見直すべきだと思っている)。本文以外では「注」の記述が詳細で参考になる。校正・校閲にまつわる概念をこのようにコンパクトに纏めている資料は意外と珍しいのである。 ただ望むらくは次の一点である。この本では第5、6章及び8章で、ときに叙述が抽象的でその真意をはっきりと把握しかねるところがあるように感じた。例えば第5章六六ページで「校正する私の耳に、著者の肉声でもなくだれの肉声でもない、ある内的な声が聞こえてくるのです」とあるけれども、私の内省が足りないせいか、自分自身の経験として似たような状況が容易には思い当らない。外国語で文学作品を読んでいる時など、優れた場面で、作者の声というよりその言語自体が内包している「歌」のようなものが聞こえてくるという経験は思い出されるが、「内的な声」とは、作者ではなく日本語自体が語っているという感覚とは違うのだろうか(氏は「ゲラの肉声」と呼んでいるのだが)。具体的なシチュエーションを使って説明してくれると読者は助かるのではないか。第6章の「言葉の三位一体」という概念にももう少し説明が欲しいし、九六~九八頁の「積極的受け身」の主体についての記述もなかなか理解が難しい。 しかし大西氏の思索が実人生に基づいた真摯なものであることは、この本の核心とも言うべき第12章を読めば明らかである。「思い当らない、難しい」などと言っていないで、これから折に触れ自分の中で検証してみなければならないだろう。本に書いてあることはすぐに理解できなくともよい。読んですぐに分かることなど、どれほどのものでもないのだから。 最後にこの本で私が一番気に入っている言葉を挙げておこう。「もちろん、本をたくさん読み、知っていることは必要です。でも、いちばん大切なことは、一冊の本、一つの作品を、深く深く読むことです」(一九九頁)(いのうえ・たかお=校閲者・言語ジェネラリスト)★おおにし・としお=校正者。岡山大学で考古学を学ぶ。文芸書、人文書の校正を中心に、実用書や専門書まで幅広く手がける。一人出版社「ぼっと舎」を開設、編集・DTP・手製本など自由な本づくりに取り組む。著書に『校正のレッスン』など。一九六二年生。