――佐藤洋二郎という作家の魅力、全体像が浮かびあがる――富岡幸一郎 / 文芸評論家・関東学院大学教授週刊読書人2020年4月17日号(3336号)佐藤洋二郎小説選集一 待ち針著 者:佐藤洋二郎出版社:論創社ISBN13:978-4-8460-1821-4佐藤洋二郎は、外国人労働者が登場する『河口へ』(一九九二年)という作品で注目され、九五年には『夏至祭』で野間文芸新人賞を受賞し新鋭作家としての地歩を築いた。工事現場などで肉体労働をする男たち、故郷をはなれ出稼ぎに出る若者、そして肉体としての女、そこにあふれ出す性と暴力の渦を描いた作品世界は、戦争や革命といった世界史的な問題を描いた「戦後文学」や、都市化と高度成長のなかで個人化する人間を描いた「第三の新人」の文学、また村上龍や村上春樹らの八〇年代後半に出現した戦後生れの作家ともあきらかに異質な、独特な人間の生活感、存在感に根ざすものであった。紀州を主な舞台として肉体労働をする若者を主人公に描いた中上健次や、北関東の農業にたずさわる青年を描いた立松和平などと、時にくらべられもしたが、佐藤洋二郎の小説は、題材的には重なるところはあっても、画然たる相違があった。 それは作家のデビュー前の習作から、近年の作品までを収めたこの二冊の短編小説集を通読すれば明らかであろう。一冊目の『待ち針』には、一九七六年に『三田文学』に発表された「湿地」が巻頭に収められているが、ここにはすでにある完成された小説の世界がある。山陰の母のもとに帰郷した若者と女との再会そして別離。ストーリーの展開はどこにでもあるような話だが、極度に凝縮された描写が、人物の、土地の、その微細な「生きているもの」の感受を強烈な印象をもって読者に迫る。描写といっても、それは言葉をぎりぎりまで削り落すことで、一種の空白を文体の内側につくり出す。 《灯りをつけ、音を立てずに部屋を出た。土間にねずみの黒い影が走った。玄関の戸を開けると雪の世界だった。月が高いところにあり、遠くに町の灯が青白く見えた。真白な田の道を歩くと雪が泣いた。振り向くと雪の中に家が大きく浮かんでいた。灯りがついていた。母は起きているのだ》 川端康成は、その新感覚派のデビュー以来、行間を読ませる作家として、やがてあの『雪国』の世界を創出するが、佐藤洋二郎の描写は「行間」よりもさらに短い言葉の「切れ」のなかに「世界」を投映しようとする。 「エンジェル・フィッシュの家」は、北九州の炭鉱で働く者の生活を描いているが、朝鮮人の抗夫もふくめて、その地の底に生きる人間たちの息づかいと体感が、水槽の中でひっくり返って死んでいる小さな魚たちのミクロコスモスに映される。時代の流れのなかで奪われていく働く場所。土地の喪失。作家の省筆は、しかしそれを物語として描くのではなく、文体の切断の、その層のなかに露わにしてみせるのだ。「待ち針」は九二年に『文藝』に発表された作品であるが、この作品のラストは、細部を辿る文体の圧縮力が見事であり、鮮烈なイメージを星雲のように現出させる。 二冊目の選集では、「遠音」そして「箱根心中」などの作品に、この作家の文体力の特徴がよく出ていると思う。この二巻の選集には、これまで単行本未収録の短編も収められ、そのことで佐藤洋二郎という作家の魅力が、その全体像が浮かびあがる。小説とりわけ純文学というジャンルが消え去りつつあるなか、小説とは短編なり、との真理を改めて突きつけてくれる貴重な作品集である。(とみおか・こういちろう=文芸評論家・関東学院大学教授) ★さとう・ようじろう=作家・日本大学芸術学部教授。著書に、『夏至祭』(第一七回野間文芸新人賞)『岬の蛍』(第四九回芸術選奨新人賞)『イギリス山』(第五回木山捷平文学賞)など。一九四九年生。