――リアリティある叙述の、変奏につぐ変奏――林浩平 / 詩人・文芸評論家週刊読書人2021年8月13日号パッサカリア著 者:ロベール・パンジェ出版社:水声社ISBN13:978-4-8010-0570-9 ヌーヴォー・ロマン。一九五〇年代から六〇年代にかけて、nouveau(ヌーヴォー)、「新鮮な」とか「これまでにない」というニュアンスの形容詞が付いた小説作品の一群がフランス語圏で花開いた。アラン・ロブ=グリエ、クロード・シモン、ミシェル・ビュトールらが中心作家である。小説なら当然あるはずの筋(プロツト)がなければ、登場人物に顔も名前もない。だから当初は、反小説ということでアンチ・ロマンの名称が用いられた。伝統的な小説形態の破壊者と目された彼らだが、実は「小説とは何か」という探求を真摯に行なっているのが広く認められるに及んで、ヌーヴォー・ロマンの名称が定着した。評者など邦訳で読んだ時、そこに強い詩的な喚起力を覚えて、刊行される訳書を順に買い求めたものだ。ヌーヴォー・ロマンの日本への紹介ということでは、早稲田仏文の平岡篤頼や江中直紀が大きな働きを示したが、本書の訳者である堀千晶も江中の教え子だったという。 さて、ロベール・パンジェである。筋を解体させ難解さを表看板とするヌーヴォー・ロマンの作家たちにあっても、「極北の」と称されたのがこのパンジェだった。この国の文壇の通念としての小説からは余りにかけ離れたテクストゆえに、どの出版社も邦訳の刊行には二の足を踏んだのだろう。本書が初めての一冊である。タイトルはバッハのオルガン曲から来ている。主題とその変奏によって展開するのがこの曲だ。本書もまさに、小説的に提示されるいくつかの主題が、求心的な筋の流れを生むのではなく、段落が替わるごとに変奏され、それが何度も繰り返されるのである。ひとつの主題の例を引こう。「静けさ、灰色。死体が厩肥のうえに腹這いになっているのを下校途中の隣人の子どもが楡の若木の向こうから発見して近寄り、生気のない躯(むくろ)の肩にそっとふれると、家にいる母親のもとへと一目散に駆け出した」。これがしばらく先ではもう変奏されている。「かれらが町長とドクターを連れてやって来たのはそのときのことだ、扉は開いていて、ほどなく机にぐったりのびている男を見つけた、本が床に落ちていた、かれらはすでに硬直していた死体を起そうと」。舞台はどこかの農村の邸のようで、男の死体が転がってる、という状況は共通だが、段落が替わり、叙述が始まるたびにもうそれまでの筋は消えている。従来の小説の読者からすれば「ふざけるな」となるところだが、叙述自体にリアリティがあるので、「読み」の時間は持続される。「静けさ、灰色。小径を走るレッカー車の騒音におびえてカラスが飛び立つ、いやカササギかもしれない。鉛色の空、霜の痕跡。」沼地には無数の鳥の骸骨が散らばっているが、泥にはまったトラクターを引き上げるためにレッカー車は動員されたのかどうか。食材の鴨は子どもが運んできたのか、鴨売りの男から買ったのか。季節は夏なのか冬なのか。すべてがこんな具合で、筋は宙に吊られたままである。やっと後半に入って、邸の主人が「余白に書き込む作業」を続けているらしい、というところから、堀も指摘するようにヴァレリーのテスト氏ふうの相貌が推測できるくらいである。 かつて平岡篤頼訳のクロード・シモンの『フランドルへの道』を読んだとき、作者の解説によれば、すべてはジョルジュの頭のなかに浮かんだ数時間の出来事を叙述したものだという迷路状のテクストにおおいに戸惑ったものだが、それでもあれは小説(ロマン)だった。しかし、本書における線状の筋の廃棄ぶりは徹底していよう。ヌーヴォー・ヌーヴォー・ロマン? まさに小説(ロマン)の極北に位置するのは間違いない。 最後に堀が紹介する、パンジェ宛のサミュエル・ベケットの手紙を引いておこう。「『パッサカリア』を読み終えたところだ。非常に好みの作品だ。最良のインクで書かれた一級品。これ以上たくみに語ることのできる作家なんていない。最高の讃辞(ブラヴイツシモ)と感謝を。心より。サム」。あのベケットをしてこう言わしめた作品が、本書である。(はやし・こうへい=詩人・文芸評論家)★ロベール・パンジェ(一九一九―一九九七)=作家。スイスのジュネーヴ生まれ。一九四六年以降パリに住み、ロブ=グリエやベケットとの交流のなかから、特異な作品を多数発表した。著書に『ファントワーヌとアガパのあいだ』『マユあるいは素材』『審問』『誰か』『ル・リベラ』『この声』『偽書』『エネミー』など。