虚構世界の実感を自由な作風のもとで再現できる理由 青木淳悟 / 作家 週刊読書人2022年4月1日号 いかに終わるか 山野浩一発掘小説集 著 者:山野浩一(著)/岡和田晃(編) 出版社:小鳥遊書房 ISBN13:978-4-909812-76-6 まったくのSF門外漢だ。こうしてごくたまにSF作品を読むとなると、何か壮大なホラ話のようなものをこちらで勝手に想像し身構えてしまう傾向にある。しかも帯文にも紹介される通り本書のSFとは、「サイエンス・フィクション=科学小説」ではなく「スペキュラティヴ・フィクション=思弁小説」だということなのだが、実際のところ両者の区別がつくかどうかさえ覚束ない。 やはりSFといったらSFで、例えば舞台がただただ壮大なスペースオペラ風のファンタジーに興味を持てるか、何ならそこに用意された宇宙船(の話)にうまく乗ることができるか、というこちら側の許容範囲の問題といえる。その意味で、本書の冒頭に置かれた中篇がまさに宇宙飛行士の話であるのは、恐る恐るこの未知のジャンルを探り進もうとする者にはなおさら興味深い。そしてこう書くのは、個人的な懸念が杞憂に終わったということなのである。 著者の仕事を振り返る「発掘小説集(単行本未収録作品の集成)」である本書の構成面の特徴として、全体四部構成を単純な執筆年順のオーダーとせず、「1」に先の中篇と七〇年代の短篇群が置かれた点に妙味を感じる(「2」は初期六〇年代の作品集成)。導入の中篇「死滅世代」は火星SFでもあるが、一面でメランコリックな破滅型人間の話であり、虚無主義を徹底して押し進めた寓話として読んだ。門外漢は門外漢ながらとにかく読み出すことで、SF食わず嫌いを克服するような読みのチューニングが早々に完了したのである。 ところで「1」の一連の作品を読み進めるなかで、やはりそれらが思弁小説と位置づけられるのをどう考えるべきかと、この点がずっと気がかりだった。「都市は滅亡せず」の廃墟にしろ「子供の頃ぼくは狼をみていた」の終戦直後の大阪市街にしろ、描かれる風景が実に荒涼として魅力的だ。少なくともここでの思弁が観念一辺倒でないことだけは、読んでいてすぐに了解できる。 思弁小説の思弁的要素とは、ごく単純に「語りの過剰」を意味するものではあるまい。本書巻末には編者による詳細な解説が施されているが、技術進歩史観に依拠した未来予測学としてのSFや「管理された未来」そのものに批判的立場をとっていたのが、国内での思弁小説第一人者(にして「SF界の検事」!)である著者山野浩一だったという。 だがその理解の一歩手前で本書を読み進めた門外漢から、読み味の面で少しばかり感想を付け加えたい。「3」はだまし絵の版画家エッシャーの作品とセットで雑誌掲載された連作ショートショートの集成だ。原稿用紙二、三枚ほどの作品がずらりと並ぶが、短いがゆえにトランスジャンル的な幅をもつとされる思弁小説のスタイルが活きる。と、視覚的要素と呼応する形(図版は本書未掲載)で書かれたバラエティに富むこれらの作品群を眺めたとき、そうした趣向なり創作上の操作がより思弁性を高めるように作用したとは考えられないか。 他の短中篇でも荒野だとか廃墟だとか終末論的幻想風景と親和した世界観が際立っているが、ここではさらに迷宮としての都市や建造物などの空間描写が増える(たとえば「二重分裂複合」「無限百貨店」「廊下は静かに」)。また生物より無生物の、鉱物の存在感が高まる(「氷のビルディング」「快い結晶体」)。さらにそれらのフィクション自体の作法として、夢であることを自覚したまま見るいわゆる明晰夢の構造を援用しているようだと感じた(「鳥を保護しましょう」「不毛の恋」は夢そのもの)。一つにはそれがどこか生々しい虚構世界の実感を自由な作風のもとで再現できる理由なのではないか。 そして「4」。晩年の山野がSFアンソロジーに書き下ろした作品「地獄八景」が、死んだことを自覚した男による地獄の訪問記であり、人類の知的活動とともに地獄が生じたというメカニズムについて、何よりもその構造について観察し考察し語り尽くそうとするのは、これは必然の成り行きだったのである。(あおき・じゅんご=作家)★やまの・こういち(一九三九―二〇一七)=作家・評論家・映画監督・脚本家・漫画原作者・翻訳家・サンリオSF文庫監修者・「NW - SF」初代編集長。没後、第三八回日本SF大賞功績賞を受賞。★おかわだ・あきら=文芸評論家・作家。第五回日本SF評論賞優秀賞、二〇二一年度潮流詩派賞評論部門最優秀作品賞受賞。一九八一年生。