沖縄と日本の関係性についての捉え方の変化も示す 大里知子 / 法政大学沖縄文化研究所准教授・沖縄/日本近現代史週刊読書人2022年1月14日号 沖縄と色川大吉著 者:色川大吉(著)/三木健(編)出版社:不二出版ISBN13:978-4-8350-8474-9 本書の奥付に刊行日として記された二〇二一年年九月七日、色川大吉氏が九六歳でこの世を去られた。『沖縄と色川大吉』は、民衆史研究を牽引し「自分史」を提唱するなど、常に市民社会のなかに自己をおきながら活動をつづけ、七〇冊を超える著書を世に送り出してきた色川氏の最後の一冊となった。(以下敬称略) 本書は〈第Ⅰ部沖縄への視座〉〈第Ⅱ部沖縄からの視座〉という二部構成になっている。第Ⅰ部は、1.自由民権と沖縄2.民衆史の旅 3.民俗誌探訪 4.沖縄の未来へ 5.随想という章立てになっており、主に一九七〇年代から一九九〇年代初頭に色川が執筆した論考や講演の書き起こしが収録されていて、この時期、色川が沖縄にどのようにかかわり論じてきたのかを知る事ができる。 本書の刊行は、編者であるジャーナリストの三木健と、沖縄近代史の専門で『明治建白書集成』(全九巻)を色川と共編で刊行した我部政男の両名の発起により二〇一〇年から年一回ほどのペースで山梨県八ヶ岳南麓を訪問していた「色川邸詣」が、二〇一九年に新型コロナの影響で中止となったことがきっかけとなり企画された。その間、二〇一四年には代表作である『明治精神史』の刊行から五〇年を記念して五月に山梨県北杜市清里のホテルで講演会を開き、秋には那覇にて「民衆史50年―色川大吉先生を囲む集い」を開催するなど沖縄の知人たちとの旧交を深めた。清里での講演録は第Ⅰ部に収録され、色川が自らの研究足跡全般について語った貴重な記録となっている。また、那覇での様子は、第Ⅱ部の上間常道〈色川大吉さんと「自分史」〉に記されている。このほか第Ⅱ部には、三木、我部を含む「色川に感化を受けた沖縄の友人たち」や「色川邸詣」に参加した人たちのなかから、新川明、川満信一、比屋根照夫、仲程昌徳、下嶋哲朗、増田邦弘、仲松昌次らが一九九〇年代半ば以降に書いた色川に関する論考やエッセイなど、いわば「私にとっての色川大吉」が収められている。 色川が初めて沖縄を訪れたのは一九七四年『ある昭和史』の取材のために戦跡をめぐった際だったという。当時色川は柳田民俗学に関心を高め、翌年には久高島で行われた神事イザイホーを石牟礼道子とともに見学するなど、これ以降沖縄を訪れるようになり、沖縄での交流が続いていくこととなった。第Ⅱ部には、この時のエピソードや思い出がいくつも語られている。 第Ⅱ部を通読してみると、故人となった大田昌秀や新崎盛暉を含め、戦後、特に六〇年代以降に沖縄の近現代史について論じた研究者やジャーナリストにとって色川がいかに大きな存在だったのかがわかる。我部政男は、「深く沖縄の歴史と文化に理解を示し、かかわった人物」として、柳田国男、中野好夫、上野英信、鹿野政直の名前を挙げ、色川大吉もその潮流に連なると述べている。また、新川明は、「鹿野さんと色川さんの著作はともに暗夜の海を航行していて見つけた灯台のごときもの」と記している。なぜ色川や鹿野の取り組みが沖縄の読者に大きな影響を与えたのだろうか。この点について、二つの側面からみてみたい。 まずひとつ目は、沖縄の時代背景として「復帰運動」の高揚と挫折があげられる。一九六〇年代後半から七〇年代へかけての沖縄は、日本への復帰を求めて高揚した民衆運動が、自分たちが望んでいた復帰のかたちとは全く異なる現実を突きつけられ打ちひしがれていた。このような現実のただ中にあって、日本に対して異質感を持ちつつも、日本を求めようとする(もしくは、求めざるを得ない)沖縄の姿をどのように理解すればいいのかと立ち止まって考えたとき、近代以降の沖縄の歴史を、色川が『明治精神史』で例示したような、民衆のうねりやエネルギーをもとに歴史叙述をなすという方法は、国家権力や体制化した「戦後民主主義」への「反骨の志」を示すものとして多くの共感を生んだ。この点については鹿野の『資本主義形成期の秩序意識』についても同様なことがいえるだろう。 もうひとつは、地域史としての沖縄史の役割についてである。色川が初めて沖縄を訪れた一九七四年、比屋根照夫の計らいで「沖縄から日本の復元力を考える」という講演会が開かれた。そのなかで色川は、海洋博に向けた乱開発と自然破壊を目の当たりにして、沖縄に対する幻想が砕かれたと激しい言葉をなげかけつつ、「沖縄の歴史がもった特殊な被害と被抑圧の経験からくる発想」、すなわち、「島津藩の支配」「琉球処分」「地獄のような沖縄戦」「アメリカ軍占領下」それぞれの時代に受けてきた苦しみ、差別と抑圧の歴史と経験を「沖縄の思想」として「本土の私たちに」表現してくれることで、「日本民族の二千年の歴史に貴重な宝として寄与できると考えるならば、沖縄の地方史はもっとも普遍性のあるものに発展するはずだ」と述べた。 色川のこのような「知的アジテーション」は、全国的な自由民権運動の掘り起こしや民衆の水脈を地表によびもどそうとする取り組みの一環であり、地域史から日本全体を照射するという思想史的アプローチは沖縄の知識人たちに刺激を与えた。現在の感覚からすると、このような、日本文化を「復元」させるための沖縄という位置づけ、または日本に寄与するために沖縄にできることは何かという問いかけのなされ方に違和感を持つ向きもあるだろう。だとすればそれは、沖縄と日本・本土とのあいだに意識の裂け目があちこちで生じているという事に他ならないだろう。この講演録は、今回掲載される際に色川本人による加筆があったと付記されている。それがどの部分なのかは明記されていないが、おわりの部分に書かれた「沖縄をもういっぺん日本から切離したところで捉え直してみる以外に、方法はないように私には思われるのです」という一文は、色川自身の沖縄と日本の関係性についての捉え方の変化を示しているのではないか。 かつて色川が社会変革の主役とみなしていた「民衆」は、もはや大きな変革を望んでいないのかも知れない。それでも、沖縄にとっての近代化の意味を問い直す作業のために、色川史学が追究した同時代的な課題と緊張関係の上に立ち、地域から日本を映し出す「民衆」に軸を置いた視点は重要さを失わない。(おおざと・ともこ=法政大学沖縄文化研究所准教授・沖縄/日本近現代史)★いろかわ・だいきち(一九二五―二〇二一)=東京経済大学教授などを務める。東京大学文学部卒。専門は日本近代史・思想史。著書に『明治精神史』『近代国家の出発』『北村透谷』など。