――戦後の生活文化、メディア産業の熱気を伝える――難波功士 / 関西学院大学社会学部教授・広告論・メディア史週刊読書人2020年6月12日号(3343号)開封・戦後日本の印刷広告著 者:竹内幸絵出版社:創元社ISBN13:978-4-422-21019-3以前、昭和初期の広告史を調べていた際、もっとも頼りとしたのは、大正から昭和にかけて発行された『広告界』という雑誌だった。そして、東京の出版社から出されていた『広告界』を補完する資料として、関西を拠点とした『プレスアルト』誌にも目を通した(戦前の『プレスアルト』に関しては、すでに津金澤聡廣らによる復刻作業が進んでいた)。当時、「大大阪」と称された商工業都市・大阪の繁栄は、当然のことながら、関西に広告産業の勃興をもたらしていたのである。私にとって『プレスアルト』は、戦前の関西広告界やグラフィックデザイン(当時の言い方では商業美術)界を知るための業界誌であり、その記事ばかりを注目していた。 しかし、『プレスアルト』のすごさは、その誌面以上に、雑誌とともに頒布される広告印刷物の現物にあった。本書のサブタイトルに、「『プレスアルト』同梱広告傑作選」とあるように、プレスアルト研究会の賛助会員である購読者たちのもとには、雑誌本体とともにポスターやチラシなどの実物も同時に送付されていた。会員であるデザイナーたちは、自身が手がけた作品を会員の数だけ提供し、それを皆で共有することで、互いに切磋琢磨しあっていたのである。もちろん雑誌だけを購読することもできたし、商業ベースの出版物ではあったものの、多分に『プレスアルト』は同人誌的であった。なかでも京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)出身のデザイナーたちのつながりが、その基盤となっていたのである。 戦時中『プレスアルト』は、『印刷報道研究』へと改題され、さらには休刊を余儀なくされたが、一九四九年には復刊し、デザイナーたちによる作品交換の仕組みも再開され、一九七七年まで続いていた。だが、戦後のメディアないし広告産業の東京一極集中の流れのなかで、これまで長らくの間、同誌の戦後の軌跡は忘れ去られてきた。その「同梱広告」が詰まった段ボール箱約二〇個が、大阪中之島美術館準備室の収蔵庫から発見され、竹内幸絵らによって「開封」されたのである。 本書には、戦後の『プレスアルト』誌とそれに付されていた印刷物(ポスター、パンフレット、PR誌、新聞広告、ダイレクトメール、商品パッケージなど)の図版が、数多く収められている。そして、印刷技術・観光・医薬品・食・百貨店・家電・化粧品・音楽・繊維などのテーマにそった論考を読み進むことで、戦後復興から高度成長期までの生活文化の変遷をより深く理解できるよう編集されている。 紹介されている事例の中でも、とくに私がおもしろいと感じたのは、一九六三年と六四年に出された英文ガイドブック『Here is JAPAN』である。発行者は、大阪の朝日放送。東京オリンピックでの海外からの来客を見越しての企画であった。この『Here is JAPAN』には梅棹忠夫や加藤秀俊も関わり、デザインを早川良雄や粟津潔が担当、カメラマンでは土門拳、濱谷浩らが起用され、編集の多くを小松左京が担ったという。広告とは異なるタイプの出版物ではあるが、当時のグラフィックデザインの最先端を示す作品として異彩を放っている。本書に収められた大阪労音(大阪勤労者音楽協議会)のコンサートポスターなどからも、一九七〇年の大阪万博に至る、関西のアートやカルチャーシーンの充実、さらにはその背後にあった関西系企業の好調をうかがい知ることができる。 戦後、広告主としてまず頭角を現したのは、医薬品・化粧品、家電、繊維、食品などのメーカーであったが、考えてみれば、それらはかつて関西の地場産業ともいうべき業種であった。それら第二次産業の隆盛と、広告やメディア、イベントなど、今日でいうところのクリエイティブ産業の活況とが、直結していた時代だったのある。そうした往時の熱気を、本書を通じて年配者は懐かしく、若い世代は新鮮に感じとることができるだろう。(なんば・こうじ=関西学院大学社会学部教授・広告論・メディア史) ★たけうち・ゆきえ=同志社大学社会学部メディア学科教授・広告史・デザイン史・歴史社会学。著書に『近代広告の誕生 ポスターがニューメディアだった頃』、編著書に『広告の夜明け 大阪・萬年社コレクション研究』など。