――冷静な人物評、家庭・親子をめぐる多様なコラム――長谷正人 / 早稲田大学文学学術院教授・文化社会学・コミュニケーション論週刊読書人2020年7月10日号(3347号)草むらにハイヒール 内から外への欲求著 者:小倉千加子出版社:いそっぷ社ISBN13:978-4-900963-88-7かつて『松田聖子論』(八九年)や『男流文学論』(九二年)で登場し、歌謡曲や文学に対する新鮮な切り口のフェミニズム的読解で私たちを驚かせた小倉千加子の新しいエッセイ集である。『週刊朝日』に二〇〇八年から一四年まで連載されたコラムの中から再構成されたものだから、いま読むと時評的な性質をもった文章の鮮度が落ちているのではないかと心配したが、むしろ反対に、時間が経ってその批評の普遍性が浮き彫りになっていて私はたいへん面白く読めた。 なかでも際立っているのが、第Ⅰ部に集められた中島梓、佐野洋子、ちあきなおみ、伊良部秀輝、上野千鶴子といった人々に関する長めの(連載で数回にまたがって書かれた)人物評である。例えば、麻雀仲間だった絵本作家・佐野洋子との感情的な交流の様子を綴った追悼文が面白い。佐野が電話で麻雀に誘ってきたのを小倉が締め切りを理由に断ろうとすると「だいたい締め切りとがんの人間とどっちが大事なのよ?」/「がんの人です」というコントのようなやり取りで断れなくなって、編集者に後で叱られたという挿話。そして佐野さんは「人の性格の欠陥が見えてしまう」から自分を含めた友人を激しく攻撃するところがあったという人物評。追悼だからと忖度をすることもなく、冷静な観察で友人の人間的なわがままさを振り返る様子が何ともすがすがしい。 そうした厳しい視線は、フェミニズムの同志である上野千鶴子にも向けられる。「私は数学の問題を解いているのが一番好き、物事を単純なものに還元している時ほど幸せなときはないわ」という道すがら上野から聞いた言葉を手掛かりに、小倉は上野のフェミニズムを批判していく。上野は女性をあまりに単純なものに還元していると。例えば、育児期間中の女性パートタイム労働者の多くが「フルタイムの雇用があれば選択するか」という問いに「ノー」と回答しているにもかかわらず、上野はそれは彼女たちの本当の望みではないと否定してしまう。しかし、非常に高い報酬を提示されても正規雇用を断る女性はいるはずだと小倉はいう。つまり労働者として働くことよりも、子育てや家事に重きを置くような人生があることを上野は見ていないというのだ。 こうした労働の公的生活には還元されないような、親子関係を中心とした個々の家庭生活の重要性を、「育児の社会化」を良しとする世の風潮に対抗して唱えていくのが第Ⅱ部の多様なコラムの奥底で鳴り響いている通奏低音だと思う。人びとは育児を社会化することを当然のように肯定し、保育を充実させる政策を議論しているが、しかし今のような「長時間保育」を認めることは、「子ども」という弱者が家庭で過ごす権利を奪うことになりはしないかと問うのだ。現在自身で認定こども園を運営しているという小倉は言う。「子どもが保育所で最高の喜びの表情を見せるのは、親がお迎えに来て子供の名を呼ぶ瞬間」だと。 もちろん、朝から晩まで家庭内に親子が閉じ込められたときには母子相姦的な閉塞という問題が起きるのではないかという反論も思い浮かぶのだが、しかし本書では、小倉は「育児の社会化」という一見立派そうな議論のなかで取り残された「専業主婦」や「幼児」といったもの言わぬ弱者たちの視点に立とうとする優しさが印象的なのであり(友人たちへの厳しさとは対照的だ)、考えればそうしたマイナーな者たちへの優しさをもった視線は、ちあきなおみや伊良部といった必ずしもメジャーではない、寂しげな人々を人物評で取り上げたところから私が感じていたことなのだった。(はせ・まさと=早稲田大学文学学術院教授・文化社会学・コミュニケーション論) ★おぐら・ちかこ=心理学者・保育士。認定こども園を運営。ジェンダー、セクシュアリティから日本の晩婚化・少子化まで幅広く分析。著書に『結婚の条件』『醤油と薔薇の日々』など。一九五二年生。