――逃避行とアイデンティティ喪失をめぐる謎――大串尚代 / 慶應義塾大学教授・英米文学・日本少女文化週刊読書人2021年12月3日号パッセンジャー著 者:リサ・ラッツ出版社:小鳥遊書房ISBN13:978-4-909812-69-8 自宅で夫が倒れていたとしたら、妻はどうするか。まずは人工呼吸、その次は? 十中八九、救急車を呼ぶだろう。間違っても、その場から逃げたりはしないはずだ——もし、殺したのが自分でなければ。 リサ・ラッツの『パッセンジャー』は、出だしから読者の頭を疑問符だらけにする小説だ。物語はウィスコンシン州の小さな町に住むターニャが、家の中で死んでいる夫を見つける場面で幕を開ける。ターニャは人工呼吸を試みるが無駄に終わると、その町から姿を消すことを決意する。警察に調べられたくないという理由で、主人公はひたすら逃げる。自分が殺していないなら、なぜ逃げるのか? 読者はとまどう。主人公は新しい土地で新しい名前とIDを手に入れ、髪色を変え、まったくの別人になりかわる。偽のアイデンティティがばれそうになると、また移動し、新たな名前を手に入れる。何を隠しているのか? 何から逃げているのか? 本書は、主人公が何者なのか、なぜ彼女は逃げ続けなければならないのかをめぐるミステリ小説だ。なにもわからないまま読者は物語に投げ込まれるが、ラッツの巧みな語り口によってついついページをめくり続けてしまう。なぜなら本書はとにかく「逃げる」ことそのものを描く、スリルに満ちた逃亡小説でもあるからだ。主人公は逃げ延びるために手段は選ばない。自分と外見や年齢が近い人物を物色し、隙を見て財布から免許証やクレジットカードを抜き取り、使い捨ての携帯電話で通話したそばからゴミ箱に捨てていく。名前を変えるたびに、どんな人物設定にするかを決め、噓を塗り固めていく。 もちろん、自分が自分であることを証明できない立場に置かれている主人公には、いくつもの困難が待ち受ける。車の売買、賃貸契約、就職先、その他さまざまな場面で「自分が誰なのか」を証明しなくてはならない。しかし本書の主人公はただ翻弄される存在として描かれているわけではない。むしろ状況を的確に判断し、不利な状況にあっても怯むことなく、生き延びるために突き進む強い意志を持った女性が描かれる。正体さえもわからない主人公の逃避行を読み進めながら、わたしはまるで一緒に全米を旅しているような感覚になり、途中からは「理由はなんだかわからないが、どうか逃げおおせてくれ」と祈るような気持ちになっていた。 リサ・ラッツといえば、探偵一家を描いたスペルマン家シリーズ(日本では第一作が『門外不出 探偵家族の事件ファイル』として翻訳されている)で知られているが、『パッセンジャー』は、アイデンティティ喪失をめぐる謎を解き明かすシリアスなトーンが印象的だ。アメリカ文学において、逃亡と「なりすまし」を描く文学ジャンルとしては、逃亡奴隷や人種異装を描くスレイブ・ナラティヴが思い浮かぶ。本書の主人公はおそらく白人であろうとは思われるものの、社会的な弱者としての立場が際立つ。また作中に登場するとある女性とのシスターフッド的な関係も興味深いところだ。その意味で、本書を翻訳者がアメリカ文学、特にマイノリティ女性文学研究者である杉山直子氏であるのは必然ともいえよう。わたしが一晩で本書を読んでしまったのは、物語の面白さもさることながら、杉山氏の翻訳の読みやすさに負うところが大きい。 主人公は逃げおおせるのか? 彼女は自分のアイデンティティを取り戻せるのか? 決してあきらめることのない主人公にどのような未来が待ち受けるのか、ぜひ実際に本書を読んで確かめていただきたい。(杉山直子訳)(おおぐし・ひさよ=慶應義塾大学教授・英米文学・日本少女文化)★リサ・ラッツ=作家。ニューヨーク州在住。著書に『門外不出』『火を起こす』など。一九七〇年生。