――現代のアイルランドにおける生と死を赤裸々に書き留める――下楠昌哉 / 同志社大学文学部教授・英文学・学生支援機構長週刊読書人2020年8月14日号https://www.kohrosha-sojinsha.jp/保守的なカトリックの国という印象が強いアイルランドが、国民投票において同性婚を認めた世界で最初の国となったのが二〇一五年。その際に、現職のヴァラッカー副首相は同性愛者であることをカミングアウトした。コルム・トビーンの『母たちと息子たち』の原著が出版されたのは二〇〇七年だが、ゲイであることを隠さないこの作家の手による九つの短編を読むと、アイルランドが世界に対して公然と示すことになる大きな変化を、この短編集が明確に先ぶれていたことがわかる。ただし作品集全体においては、むしろアイルランドの変わらない部分の方が強い印象を残す。 作品の舞台は最後の「長い冬」を除き全て現代のアイルランドで、アイルランドでの生活経験があればあるほど実感できる細部の書き込みで溢れている。例えば、『アイリッシュ・タイムズ』という新聞名が出てくれば、その読者はインテリ、あるいはその階層をすごく意識している人であるということだ。 この訳書には、「日本語版に寄せて」と題された著者の序文がある。そこで吐露されるのは、アメリカやイギリスでの生活を経て、長編小説の作家としてすでに英語圏で定評を得てきたトビーンが抱いていた、アイルランドの先輩作家たちが「お家芸」としてきた短編小説の執筆に対する苦手意識である。鬱を患った息子と母親を描いた「旅」は二十四才の時の作品で、本書に収められた次の短編を書くまでに二十五年がかかったという。 しかし収められた短編は、どれもいい。ストレートな予定調和を示す作品はほとんどなく、むしろ居心地の悪い停滞したあり様が粘り強く描かれてゆく。それぞれが、陰鬱でありながら心の奥底を強く引っ搔いてくる一幅の絵画のようだ。 ジャック・ヒギンズが描くベルファストよろしくノワールな主人公が出てくる巻頭の「ものの分別」は、ジョイスが描いた「麻痺」のような現代ダブリンの「空っぽ」が描かれ、カトリック教会への辛辣な描写もあいまって、『ダブリン市民』と『若い芸術家の肖像』をいっしょに読んだような衝撃が味わえる。「歌」と「フェイマス・ブルー・レインコート」は、音楽によって呼び覚まされた過去の亡霊が静かに封印される様を、「肝心かなめ」は小さなアメリカン・ドリーム的な話だが、地縁から解放される母親とそこにしがみつこうとする息子を描く。「神父持ち家族」は神父による小児虐待を扱ってはいるが、登場人物たちに対する著者の眼差しはやさしい。「三人の友だち」はおそらく一番活き活きとした、同性愛とドラッグを扱った作品。寒い海を全裸で泳ぐ場面はアイルランド臭が強烈。「夏のバイト」では、溺愛した孫に通夜の寝ずの番を拒否される女性の姿が切ない。 カタルーニャ・ピレネーを舞台した短編集の最後の物語である「長い冬」については、作者トビーンが序文において自ら「最高の出来栄え」と評している。同じカトリック国であるスペインは、アイルランドの人々にとって身近な国だ。『ダブリン市民』の最終話「死者たち」において、雪は死者と生者の区別なく降り積もった。この物語でも、雪は降り積もる。「死者たち」よりもはるかに容赦なく。だが雪はやがて溶け、苛烈な死と生が再び剝き出しになって、その姿を現す。物語と短編集は、そこで終わりを迎える。現代のアイルランドにおける生と死を、この作家はこれからも赤裸々に書き留め続けるのだろう。(伊藤範子訳)(しもくす・まさや=同志社大学文学部教授・英文学・学生支援機構長) ★コルム・トビーン=アイルランド生れの作家、脚本家、ジャーナリスト。邦訳書に『ヒース燃ゆ』『ブルックリン』『マリアが語り遺したこと』『ブラックウォーター灯台船』『ノーラ・ウェブスター』など。一九五五年生。