――現象学から脳状態と意識の関係を捉え直す――佐金武 / 大阪市立大学大学院文学研究科准教授・哲学週刊読書人2020年7月3日号(3346号)「心の哲学」批判序説著 者:佐藤義之出版社:講談社ISBN13:978-4-06-519352-5われわれは赤信号を見て立ち止まり、青信号を見て横断歩道を渡る。しかし、私が見ている赤さや青さは本当に、あなたが見ている赤さや青さと同じだろうか。何が赤や青であるかにおいて意見が一致しながら、見ている色が実際には違うことはありうるだろうか――。子どものころ一度は不思議に思ったはずのこの問いこそ、現代哲学において「ハード・プロブレム」と呼ばれる問題に関係する。すなわち、心の振る舞いや傾向性、機能(「心理学的意識」)が同じでありながら、心に現れるもの(「現象的意識」)が異なることはありうるかという問題である。 さて、佐藤義之氏は、レヴィナス研究をはじめとする、いわゆる「大陸哲学」(非英語圏のヨーロッパ大陸を主要な舞台とする哲学的伝統)分野の学者である。その佐藤氏が、意識をめぐる「分析哲学」(英語圏を中心とするもう一つの哲学的伝統)の動向を痛烈に批判したのが、本書『「心の哲学」批判序説』だ。心の哲学に登場する大半の論者は、意識を消去するか、何らかの仕方で物理的なものへ還元することを目論む「物理主義者」であるが、佐藤氏の批判のメイン・ターゲットは反物理主義を標榜するD・チャーマーズである。しかし、本書における佐藤氏の試みは、チャーマーズの批判に対して物理主義を擁護することではない。そうではなく、心の哲学における物理主義と反物理主義が共通して前提とする議論の枠組みそのものに厳しい批判の目が向けられる。 本書には多くの鋭い指摘が見られるが、なかでも心の哲学に対する批判として特筆すべきは、現象的意識は心理学的意識に影響を及ぼすという著者の洞察である。心の哲学のすべては心身問題にまつわるものであり、それは通常次のような形で語られる。特定の脳状態から、信号が赤く見えるという現象的意識がどうして生じるのか、と。ここで問われているのは、カテゴリーとして異なる脳状態と意識の関係である。これに対して本書が示唆するのは、心身問題を単に心的なものと物的なものとの対立に押し込むのではなく、現象的意識と心理学的意識の関係をめぐる心心問題として捉え直さねばならないということだ。 すでに見たように、心理学的意識は心の観察可能な振る舞いや傾向性、あるいは機能の観点から捉えられる。それは常に仮言的(「XだったらY」)である。私が思うに、心理学的意識だけでなく、科学的探究の対象である物理的な性質もすべて仮言的である。科学が最終的に検証(と反証)の方法にもとづく限り、任意の物理的対象がどのような状態にあるかは、テストを通じて仮言的(「XをするとY」)にしか確かめられない。そうすると、心身はカテゴリーが異なるとはいえ、仮言的である点では同じだ。他方、現象的意識は常に定言的である。たとえば、信号が赤く見えるというのは、それがまさに(条件なしに)赤いということだ。ところで問題は、仮言的なものからいかにして定言的なものを導出できるかである。 意識の場合、自らの経験を通じてわれわれがはじめに出会うのは、定言的な現象的意識である。他方、他人の心や科学が扱う物理的対象を知ろうとするとき、われわれはそれらの仮言的な振る舞いや傾向性、機能の面から接近せざるをえない。他人がもつ定言的な現象的意識や、様々な物体および物質の定言的基礎(仮に存在するなら)は、それについて考えることはできても、直接的に感知することはできない。そもそもそのようなものが存在することさえ疑うことができる。こうして心身(心)問題が発生する。だが、自己の意識を省み、そこから出発するとき、現象的意識(信号が赤い)が心理学的意識(さあ、足を踏みだせ!)の働きに寄与することは自明ではないだろうか。現象学の前ではこうして、心身(心)問題は消散する。当たり前だが驚くべきこの事実に、本書は改めて気づかせてくれる。(さこん・たけし=大阪市立大学大学院文学研究科准教授・哲学) ★さとう・よしゆき=京都大学大学院人間・環境学研究科教授・現象学・倫理学。著書に『レヴィナス 「顔」と形而上学のはざまで』『「態勢」の哲学』など。一九六二年生。