――今、本書が登場した意味を考える――小俣和一郎 / 精神科医、精神医学史家週刊読書人2018年1月5日号私の中のわたしたち 解離性同一性障害を生きのびて著 者:オルガ・R・トゥルヒーヨ出版社:国書刊行会ISBN13:978-4-336-06193-5本書は31歳のとき「解離性同一性障害」と診断されたヒスパニック系アメリカ人女性(職業は弁護士となっている)が、その原因とする幼少期からの父親および男兄弟による性的虐待の過去と、社会人になったのちに受けた精神科医による治療の過程とを記したものである。「解離性同一性障害」などというと、いかにも難解な響きがあるのだが、以前は「多重人格」とよばれて、精神医学領域のみならず広く一般にも知られていた。かつての一時期には、多重人格に関する本が流行し日本語にも翻訳された(『失われた私』『24人のビリー・ミリガン』など)。また、日本でも連続幼女殺人事件の被告の精神鑑定でこの病名が挙げられて話題となった。 こうした多重人格はどのようにして生まれるのであろうか? 本書をはじめとする多くの書物には、その背景に虐待とそれに伴う外傷体験があるとする。すなわち、耐え難い恐怖や苦痛を伴うストレス体験には、それを記憶から切り離そうとするメカニズムが働く。しかしながら、この解離された記憶は完全に無化するわけではなく、別人格(本書のタイトルにある「私の中のわたしたち」)を形成してその中で生き続ける。つまり、不快で恐怖に満ちた体験とそれに伴う記憶が切り離されて別人格がそれを引き受ける形で存続する。 もっとも、こうした「解離」という状態が科学的に解明されているわけではない。精神医学の領域にも似たような概念や症状(臨死体験、離人症、精神運動発作、健忘症など)はあり、その背景にある精神疾患も、統合失調症、部分てんかん、気分障害、PTSD、自己愛性人格障害など、実に多様である。また、人格障害とは何か、さらに人格とは何か、という基本的な疑問に対して精神医学は未だ明瞭な答えを用意できていない。 かつて精神分析の生みの親フロイトは、当初ヒステリー患者に性的虐待(近親姦エピソード)の記憶があることから、ヒステリーの原因をそうした過去の外傷体験に求めたが、まもなく否定する。それらは患者の単なる幻想にすぎないとの結論に至ったからである。 こうした精神医学と精神分析の前提に立つのなら、多重人格や解離といった概念自体に疑問符がつくのだが、それを敢えて無視すれば、本書は性的虐待などの性暴力というものが、いかに被害者の精神に深刻な影響を与えるのかを生々しく開陳しているものといえるだろう。実際、著者も、精神科医の治療を受けたのち(つまりは自らの解離症状が「人格の統合が進むにつれ」軽快したあと)アメリカ全土で性暴力被害者のための講演活動を精力的に進めていく。著者によるウェブサイトのみならず本書自体もまた、そうした著者の啓発活動の一環として書かれたものと思われる。 ところで、本書がなぜ今この時期になって、新たに登場したのかの意味を考えることは、社会的また文化史的にみても興味深い。 折しも、アメリカでは男性政治家や有名人の過去のセクハラ疑惑が、相次いでマスコミを騒がせている。そのきっかけは、いずれも被害女性からの告白であり、訴えである。 また、現在の精神医学や臨床心理学においては、いわゆる当事者研究がさかんである。当事者とは、まさに本書の著者のような被害者ないしは患者のことにほかならない。 こうした流れが、総じて今後の日本社会でも進展してゆくことは間違いないであろう。その道程は、少し長い歴史の目で見るのなら、日本でもこれまで長く続いてきた男尊女卑の社会慣習が完全な男女平等へと修正されていく中長期的な歴史的潮流の現われなのではないか。これに伴って男女の性差や役割分担にも、今後より大きな変化がいっそう顕在化してくるものと思われる。(伊藤淑子訳)(おまた・わいちろう=精神科医、精神医学史家)★オルガ・R・トゥルヒーヨ=弁護士。DID(解離性同一性障害)を発症後回復し「ジェンダーにもとづく暴力(女性に対する暴力)」防止の社会活動に立ち上がり世界各地で講演を開く。