――知的興奮とぬくもりに満ちた漫画批評――西野智紀 / 書評家週刊読書人2020年4月3日号(3334号)ピノコ哀しや 手塚治虫『ブラック・ジャック』論著 者:芹沢俊介出版社:五柳書院ISBN13:978-4-901646-35-2本書は手塚治虫『ブラック・ジャック』をブラック・ジャックとピノコの恋愛物語として読み解いた一冊である。著者は文学や教育、家族問題をテーマに活躍する評論家で、あとがきによれば本書の執筆依頼は一九八九年に手塚治虫が亡くなってすぐだったそうだ。最初は手塚論を書いてほしいという依頼で、講談社版手塚治虫全集全三百巻が届いたが、先に読み始めた家人たちのほうが漫画の読み手として優れており、彼らに匹敵する読み込みをせねばならない――それで気が付けば書き上げるのに三十年を要してしまった、とのこと。そんなこんなで『ブラック・ジャック』に絞って綴られた本書は、前述の講談社版全集のうちの全十八巻百八十一話に依拠している。著者はこの講談社版で、ある興味深い発見をした。それは、『ブラック・ジャック』は秋田書店『週刊少年チャンピオン』に発表されたため、講談社版より先に秋田書店版全集も出ているが、こちらは全二十五巻二百三十四話が収録されている点。つまり、講談社版は何らかの方向性を持って編集し直されていると考えられるのだ。それがピノコとブラック・ジャックの恋愛譚だった。ピノコについて簡単に紹介しておこう。三頭身の幼童で、後頭部に小さな蝶のリボンを四つ付けている。言葉遣いは舌足らずだが言葉の理解力や話す内容は大人並みで家事全般をこなせる。頬を両手で挟んで口を尖らせ「アッチョンブリケ」という意味不明の言葉を話すときがある。また、ブラック・ジャックの恋人もしくは妻気取りで、彼に近寄る女には露骨に嫉妬する……。ちょっとつかみづらいキャラクターだが、これは出生に理由がある。彼女は双子の姉の体内で十八年間も「畸形嚢腫」として生き、本来は切除され処分されてしまうところを、内臓が一揃いしていたためにブラック・ジャックの手によって組み立てられ人間として創造された。だから心は姉と同じ十八歳なのである。実はこの話が収録された巻も秋田書店版と講談社版で大きく異なる。前者では第二巻の第二話だが、後者では第十四巻の第一話なのである。すなわち、講談社版ではピノコの出自が長いこと謎のまま進行するのだ。本書はこれらの着目をベースに論じられていく。なぜピノコの来歴説明が後回しにされたのか。成長したくてもできないピノコの哀しみはいかほどか。ピノコはブラック・ジャックを恋慕しているが、対するブラック・ジャックは信頼こそあれど恋愛感情には至らないのはどうしてか。そもそも彼の天才的医術を持ってすればピノコを十八歳の肉体でつくることも可能だったのではないか?なお、講談社版の最終話は「人生という名のSL」で、夢の中ではあったものの、ブラック・ジャックはピノコを「最高の妻」だと言っている。その内面的変化を分析していくと、手塚治虫が『ブラック・ジャック』に託したさらなる不変的テーマが浮かび上がってくる。思わぬ知的興奮とぬくもりに満ちた漫画批評だ。(にしの・ともき=書評家)★せりざわ・しゅんすけ=評論家・文学論・教育論・宗教論・家族論。著書に『家族という意志』『宿業の思想を超えて』『子どものための親子論』など。一九四二年生。