――目撃者の人生に刻み込まれた美しいフィクション――越野剛 / 慶應義塾大学文学部准教授・ロシア文学・文化史週刊読書人2021年7月2日号ヴァイゼル・ダヴィデク著 者:パヴェウ・ヒュレ出版社:松籟社ISBN13:978-4-87984-398-2 ヴァイゼルはひ弱なユダヤ人だが、黒豹を馴らし、着陸する飛行機の間際に忍び寄り、サッカーの試合に助っ人として現れ、本物の銃や弾薬を遊び道具に提供してくれる。そんな不思議な少年に魅了されて過ごした夏の記憶が語られる。夏休みの終わりにヴァイゼルは爆薬の引き起こした硝煙の中に消えてしまう。心温まる友情の要素はあまりないが、恐怖と美しさが少年期の思い出に重ねられるところは『スタンド・バイ・ミー』のようでもある。 スターリン死後の一九五六年に成立したポーランドのゴムウカ政権はカトリック教会に一定の地位を認め、社会主義と宗教が共存する独特の政治体制ができあがった。小説で子供たちを支配する権力も二つに分かれており、生物教師Mスキはメーデーの行進に参加しない生徒がいないか目を光らせ、ドゥダク司祭は教会学校をさぼろうとする子供に罪人が焼かれる地獄の絵を見せて脅す。監視する眼差しの描写が印象的だ。雲間からのぞく神の「三角形の目」にしろ、人を昆虫に変えてしまうMスキの冷たい目にしろ、誰かに見張られているという恐怖は、どこかで子供らしい未知の領域への好奇心にも結びついている。不思議な少年ヴァイゼルも「不自然なまでに大きくぱっちりと見開かれた真っ黒な目」を持ち、なんでも見抜いて焼き焦がす視線を放つ。なによりもヴァイゼルはメーデーの行進も聖体の祝日も超然と無視することで、神よりもイデオロギーよりも高いところから子供たちに妖しい権力をふるうのだ。 幼年期の記憶が『ヴァイゼル・ダヴィデク』の枠組みになっている。ヴァイゼルの引き起こした爆発事故の後、目撃者の少年たちは学校に呼ばれて「尋問」を受ける。その場で少年ヘレルはヴァイゼルのいた夏休みを思い出し、それが小説の中心的な時間軸になっている。しかし少年の背後には大人になった語り手のヘレルがいて、ヴァイゼルの失踪の意味をその後の人生でも考え続けてきたことが明かされる。少年が事件を回想する場面そのものが現在の視点で再回想されるのだ。子供の印象は大人の知性と経験によって絶えず訂正(あるいは検閲?)されることになる。大人になったヘレルは過去の謎の空白に意味を与えようとするが、それは記憶を歪めて隠蔽する身振りにも見える。小説の語りは過去と現在を行ったり来たりして、重要でもなさそうなシーンが繰り返されたり、大事なポイントが省略されたりもする。迂回しながら中核にたどりつかない語りは、戦争や災害のトラウマの記憶を思い起こさせる。不思議なものへの恐怖と憧憬はよく似ている。隠すとは守ることでもある。 子供たちの遊び場である墓地に不意に現れた狂人は、ヴァイゼルの戯画のような役割を果たす。恐ろしくも蠱惑的で意味の分からない言葉を吐き散らし、汚れた病院のガウンを黄色い翼に変えて飛翔し、閉塞された世界を逃出するかのように見える。しかし、現実には狂人は郊外に住む俗物たちに石で打たれ病院に連れ戻されてしまう。 グダンスクという町はドイツ(プロイセン)とポーランドの境界地域にあたり、昔からの住民であるカシューブ人と異邦のユダヤ人が出会う開かれた場所だった。しかし小説で描かれるのは、腐った魚で海が覆われ、彗星が出現し、日照りで土地が乾く、そんな黙示録的で閉塞した時空間だ。卒業後に豊かな西側のドイツに移住した級友の姿からも、本当に脱出できる場所なんてどこにもないという諦念が感じられる。 小説の終わりに、ヴァイゼルが行方知れずになる場面の「真相」が描かれる。大人たちの尋問に耐え、嘘を吐いてまで隠し通した大切な記憶だ。もちろん、多分に信頼できない語り手であるから、事実そのものであるかどうかは分からない。しかし閉ざされた世界から、世紀の大魔術よろしく脱出し、姿を消すヴァイゼルの身振りは、美しいフィクションとして目撃者の人生に刻み込まれたといえる。(井上暁子 訳)(こしの・ごう=慶應義塾大学文学部准教授・ロシア文学・文化史)★パヴェウ・ヒュレ=現代ポーランド文学の作家。グダンスク(旧ドイツ領ダンツィヒ)生まれ。著書に『ヴァイゼル・ダヴィデク』『引っ越しの時代の物語』『メルセデス・ベンツ フラバルへの手紙から』『カストルプ』など。一九五七年生。