――「犬のかたちをしているもの」の別名とは――八木寧子 / 文芸批評家週刊読書人2020年4月17日号(3336号)犬のかたちをしているもの著 者:高瀬隼子出版社:集英社ISBN13:978-4-08-771696-2魅惑的なタイトルに惹かれて読み始めた途端、ページはみるみる膨大な量の付箋で埋められてゆく。それは、評者が女であることと無関係ではないだろう。 愛とセックス。 この、人間にとって普遍的で最大ともいえるモチーフを真正面からとらえ、さらには「男/女」「都会(東京)/地方」「産む/産まない」といったさまざまな二項対立が提示される。女性は、ある意味ではおそらく男性以上に、人生において多様な二択を迫られる。この小説は、その事実をまっすぐに突きつけてくる。 著者のデビュー作である。本作が新人賞選考において他を圧倒していたのは、一見すると古典的な「三角関係」を極めて現代的な状況に落とし込んだ感覚のよさと、抜きんでた描写力、どこまでも冷静な、醒めた諦観を表明しつづけるヒロインの造形の卓抜さにある。 主人公の薫は、仕事を通して交際に至った郁也と同棲状態。体の関係はとうに途絶えているが、それでも互いを必要とする充足感の中にある。もともと性交渉が苦手な薫は、卵巣にできた腫瘍の切除手術以来さらに忌避するようになるが、その状況を郁也も受け入れていると思っていたのだ。 ところが、突如あらわれた「ミナシロ」という女性によって、奇妙な三角関係が現出する。「ミナシロ」は郁也の子を妊娠していた。 ただ、「ミナシロ」が郁也と「そういうこと」をしたのは欲望を金銭という対価と引き換えにした行為に過ぎず、妊娠したのは「しくじった」結果であり、「ミナシロ」としては、子どもは産むが養育は薫と郁也に委譲したいと提案するのである。 ミナシロと初めて会った店内を薫が冷静に観察する描写が冴えている。 「店内は混んでいる。スマートフォンをいじる人、パソコンを開いている人、本を読んでいる人、資料を覗き込んで何か話し合っている人たち。そう、ドトールってこういうとこだ。子どもをあげる、あげない、なんて話をするところじゃなくて。」 浮気の果ての別れ話と構えていた薫は戸惑う。ミナシロの奇妙な申し出――そこには打算も深謀遠慮も感じられず、懇願すらない。この事態にどう感情を介入させたらよいのか。 もちろん薫は当初、郁也に対して怒り、呆れもする。だが最終的には、郁也を愛しているというシンプルな結論に至る。そこから、薫がミナシロの子を引き取るシミュレーションを繰り返すことを誰も非難できないだろう。ただ致命的なのは、薫には子どもを愛せないという自覚があることだ。少なくとも、犬猫よりかわいいとは思えないのである。 薫は、いまは亡き愛犬と郁也や産まれてくる子どもを比べてしまう。愛犬ほどに彼らを愛することはできるのか。いや、「どうしたら、愛していることが証明できるんだろう。ロクジロウ(愛犬――評者・注)を愛していると確信する気持ちと同じ強さで」と思考しつづける。そうするうちにも、ミナシロのお腹はどんどん大きくなっていく。 薫の思いや思考が二転三転するように、郁也、ミナシロそれぞれの思惑や判断も変転していく。そんな時間経過のなかで、「愛とは何か」という問いが深められていく。 村田沙耶香ら先行作品とはまた違ったアプローチで、性と生殖と愛というきわめて個人的でナイーブなモチーフを、露悪的に服の裏地を見せるような行為とはあきらかに異なる切実さをもって差し出す矜持がここにはある。 おそらく、女性の多くは多少の「共感」あるいは「反感」をもって――人によっては膨大な付箋を貼り付けながら――この作品を読み、男性は理解を促されること自体に困難さを覚えるかもしれない。経血あるいは不正出血(このふたつはまったく異なる意味合いの出血である)が下着を汚すイメージもほとんどの女性はまざまざと脳内で再現できるが、男性にはまったく未知の感覚だろう。 だが、終始乾いた諦念を抱く薫が郁也に見せる唯一の執着――それが「愛」であり、「犬のかたちをしているもの」の別名なのだ――の湿った手触りには、単なる「共感」や「反感」を超えて読み手に届けられる「祈り」のようなものが滲み、ラストに漂う不穏さには、物語を安易に着地させない文学的なたくらみが感じられる。 「犬のかたちをしているもの」とは何か。 その答えは、読み手の数だけ存在する。(やぎ・やすこ=文芸批評家)★たかせ・じゅんこ=立命館大学文学部卒業。「犬のかたちをしているもの」で二〇一九年度第四三回すばる文学賞受賞。一九八八年生。