――ひとつの願いと、時代に呼応する否応なき意図――山本伸 / 東海学園大学教授・英語圏カリブ文学週刊読書人2021年7月23日号アウシュヴィッツで君を想う著 者:エディ・デ・ウィンド出版社:早川書房ISBN13:978-4-15-210013-9 本書の原著者エディ・デ・ウィンドが息を引き取った一九八七年九月二十七日、筆者はマンハッタンの心地よい喧騒のなかで希望に満ちあふれる生活を始めたばかりだった。すれ違うホームレスにすら解放された自由な気風を感じる、そんな毎日を心から満喫していた。あれから三十余年、アメリカであってアメリカでない場所、リベラルの極致、と太鼓判を押されていたニューヨークに、いまアジアンヘイトの風が吹きすさぶ。時代は繰り返すという。生きた時代を異にするエディ・デ・ウィンドと筆者のあいだで、語られるべきことと、語るべきことが、いままさにシンクロしようとしている。 本書は三度版を重ねている。初版はアウシュビッツ解放からわずか一年足らずの一九四六年に、二版目は一九八〇年、そして今回翻訳されたのは二〇一九年版である。そして、それぞれの版には共通するひとつの願いとともに、それぞれの時代に呼応する否応なき意図が込められている。 まずは一九四六年の初版。あのおぞましいアウシュヴィッツが終焉を迎えたすぐ翌年の出版だ。描写の細かさや人名、数値の正確さは、それが記憶ではなく記録であることをうかがわせる。そう、まさにこの本は「そのとき、そこで」書かれたのだ。タイトルの通り、愛する妻フリーデルへの強く深い恋慕を胸に、過酷極まりない二年を生き抜いた一人のユダヤ系オランダ人男性エディの、純愛の物語であることは紛れもない事実である。 しかし、同時に、それはわれわれがすでに持っている既成のアウシュヴィッツの概要的、集合的イメージに、まさに冷や水を浴びせかけるがごとく、ハッとするまでに強烈な現場のリアリティを、「これでもか、これでもか」と突き付けてくる。不妊化、断種のための実験にもてあそばれる女性たち、ナチ特殊部隊員に足を持たれて頭を木に打ちつけられる幼子ら、そして、ガス殺が追いつかないと縦三〇メートル、横六メートル、深さ三メートルの穴に放り込まれて二十四時間ガソリンで焼かれた幾千万もの罪なき人びと。ナチスによってユダヤ人が「おもちゃ同然にもてあそばれ、ネズミのように追い詰められていった」様子が、エディ自身の恐怖や不安、そしてフリーデルへの想いと気遣いの隙間をすり抜けて、容赦なく読者へと飛びかかる。 なかでも、終盤でガス室や火葬場での死体処理作業をする特務班に配属されていたカベリ教授が語ったある男の話は、それひとつでアウシュヴィッツをすべて物語ると言っても過言ではないだろう。教授はその目ではっきりと見たのだ、火葬穴のそばで作業していた男が溝を流れていく死体の脂肪にパンを浸しているところを。 しかし、そんなせっかくの克明な記録も長い月日に紛れて見えなくなってしまえば、砂に埋もれた難破船の財宝のごとく、その価値を失ってしまう。アウシュヴィッツ終焉から三十余年の一九八〇年と、七十余年の二〇一九年の再版は、まさにその宝を忘却の砂から掘り起こすための作業に他ならない。エディがフリーデルへの愛を糧にして命がけで残したこの記録を、人類の宝と呼ばずして何と呼ぼうか。私たち読者もまた、埋もれては掘り返すという作業を未来永劫ずっと続けていく必要があるのだ。 最後に、本版に新たに収載された家族あとがきによるエディ・デ・ウィンドの生涯は、もはやあとがきの域を超えて、独立した一つの読み物として大いに興味をそそられるものであることを付記しておく。アウシュヴィッツ後のエディ、本編ではわからなかったフリーデルの消息と運命、そしてエディの意思を受け継いだ家族の願いでもある、本当にあったことだと人びとを説得するために「語り継ぐ」ことの大切さが、精緻かつ明瞭にまとめられている。(塩崎香織訳)(やまもと・しん=東海学園大学教授・英語圏カリブ文学) ★エディ・デ・ウィンド(一九一六―一九八七)=ユダヤ系オランダ人の精神科医・精神分析家。ライデン大学医学部卒業後、ウェステルボルク通過収容所に医師として志願。収容所で出会い結婚した妻とともに一九四三年九月アウシュヴィッツ強制収容所に移送される。一九四五年一月のアウシュヴィッツ解放後も現地にとどまり、医師の勤務のかたわら本書を執筆。その後は収容所からの生還者が抱えるトラウマの問題に取り組んだ。