――生を終えて死へ向かう次元に身を浸して描く――蜂飼耳 / 詩人週刊読書人2020年6月26日号(3345号)タマ、帰っておいで著 者:横尾忠則出版社:講談社ISBN13:978-4-06-518794-4一五年間をともに生きた猫のタマへの愛情が溢れている。『タマ、帰っておいで』は、横尾忠則が描いたタマの絵九一点と短い日記的な記述から成る。冒頭にはタマへの弔辞、末尾にはタマからの手紙「タダノリ君へ」が置かれていて、死と生を見渡す構成だ。 タマのさまざまな表情やポーズが切り取られていて、絵にこめられている思いの深さが伝わる。タマの毛並み、その感触、好奇心や無関心、やわらかな眠り。後ろ姿がとてもいい。のびのびした寝姿も。タマの魅力が詰まっている。タマを失った感情は、悲しみという以上に苦しみであり、記述の中にもペットロスという言葉が使われている。 私も、遠くからもらわれてきた猫を飼っていた時期があった。一六歳まで生きた。猫を好きなことは好きだが、飼うつもりだったわけではないまま引き受けることになった。それもあってか、猫と私は、互いに譲るところは譲る、近づき過ぎない、といった関係を少しずつ築いていった。諦念をかたちにしたような猫だった。夏目漱石にならったわけではないが、ねこ、と呼んでいた。それが名前となったのだった。 ねこは人に触られることを好まなかった。だから、死に瀕したときもなるべく触らないように気をつけた。撫でて励ましたりすれば逆にストレスをかけてしまうことがわかっていたからだ。死んだときは悲しかったし、しばらくはぽっかりとあいた空間になんともいえない寂しさを感じた。ある年の夏だった。生き物を飼うとはそういうことだ、お別れのときは来るのだと、繰り返し思った。 この本を手に取り、タマの絵を一つ一つ眺めているうちに、ねこの思い出がよみがえってきた。タマの絵の奥から、絵のタマの奥から、私のねこもひょっこりと顔をのぞかせる感じがして、どきりとした。 本書のいくつかの記述はタマの性格と様子を伝える。「わが家のタマは家の中ですれ違っても/知らんぷりしているくせに、/外でばったり会うと、えらい喜ぶ。」とか「リモコンを見せるだけで走ってきたタマ。/リモコンでお尻を叩かれるのが趣味だった。」など。リモコンでお尻を叩かれる猫? よくわからないけれどなんだか面白い。「タマの死を描くことは自らの死を描くことでもある。」「タマの存在が如何に大きかったか。/単に癒される以上に生活必需品としての猫は/人生と芸術そのものであった。」と横尾忠則は記す。猫という生き物は人間のそばで暮らし、なにを思っているのだろうか。人間をどう眺めているのだろう。 弔事の言葉は「猫の形をした人間タマへ。」と結ばれている。猫も人間も変わらない次元がある。生を終えて死へ向かう、という次元だ。横尾忠則はそのことにどっぷりと身を浸し、感知できるものを見据えて描く。大好きなタマ。とても大事にされていたタマ。かけがえのない関係と感情が伝わってくる。(はちかい・みみ=詩人) ★よこお・ただのり=美術家。各国のビエンナーレに出品し、高い評価を得る。一九三六年生。