――「極私的」に対象とぶつかる決意の批評――小野俊太郎 / 文芸評論家週刊読書人2020年4月17日号(3336号)ドラえもん論 ラジカルな「弱さ」の思想著 者:杉田俊介出版社:PヴァインISBN13:978-4-909483-50-8授業でよく冗談めかして日本三大「ん」という話をする。「アンパンマン」「ポケモン」「ドラえもん」で、男女を問わずに小さい頃に夢中になりながらも、いつしか卒業する作品である。学生の反応は色々だが、中には卒業しない(できない)人もいて、どうやら杉田俊介もその一人だったようだ。 これまで宮崎駿や荒木飛呂彦などを論じてきた手練による長編評論だが、「藤子・F先生」と呼び、対象と距離をとる節度を失っているのにまず驚いた。しかも、ドラえもん作品といっても、作者が死去した一九九七年までが対象なので、脳内に大山ドラえもんの声が響いてくる。また、大人向けのSF短編にも章をひとつ割くなど構成もアンバランスだが、読むと必然性がわかり、本書はどこまでも藤子・F・不二雄(藤本弘)論なのである。しかも、学問風のドラえもん論や批判の意見も、一頁でばっさりと切り捨てられ、杉田が「極私的」に対象とぶつかる決意のほどがよく伝わってくる。 てんとう虫コミックスの作品を取り上げて、キャラクター間の関係を読み取り、「ふつう」の人間であるのび太の「弱さ」の魅力と意義を探りながら、しだいにドラえもんの弱さも見出す。ネコ型なのに耳のない不完全な「ポンコツ」ロボットがのび太をケアする理由がわかる。打ち出の小槌ではないドラえもん像を示しているのだ。ジャイ子をめぐる問題系を指摘し、結婚ではなくてのび太と連帯する可能性を示唆するのはおもしろい。 劇場版アニメと原作の「長編ドラえもん」を四期に分けて、発表順に藤子・Fの苦闘を探っていく。そして四重らせんと呼ぶ「政治・宗教・進化・科学技術」の要素がからみあっていると分析する。重要な作品として『創世日記』を指摘するが、作品の欠点を認めつつ、評論家として論点をえぐり出す。杉田のなかのファン心理と評論家としての判断が葛藤しているのも興味深いのだが、それだけ対象と真摯に向き合っているのだろう。 藤子・Fという作家と作品がもつ一貫性を読み解こうとする杉田の手続きは力強いのだが、「グロテスク」という言葉をいささか不用意に使っている気がする。グロテスクな展開だから子どもにはどうか、といった価値判断は、藤子・Fの思想総体にせまるときには邪魔かもしれない。もっとも、そうした配慮が杉田の優しさなのではあろうが。 藤子・F作品を「戦後民主主義の最良の夢」とみなす杉田は、補助線として「ミノタウロスの皿」のような大人を主人公としたSF(すこしふしぎ)短編を取り上げ、藤子・Fがもつニヒリズムを踏まえた思索に迫っていく。そして最後の短い章で、ルソーの『社会契約論』『人間不平等起源論』を持ち出して、「友」と「敵」を二分しない考えを導き出してくる。現在の状況にあてはめると、「箱舟はいっぱい」などがアクチュアルに見える。藤子・F作品には、ふつうの人間が読みながらも、いつしか民主主義や国家や社会について考えさせられる誘惑に満ちていることが再確認できるはずだ。 藤子・F作品を読んだりアニメを観直したくなる本だし、実際評者も読んだり観てしまったのだが、あとがきに「業(運命)の肯定」という立川談志の言葉が引かれていたのが気になる。どうやら藤子・F作品を落語とみなす視点を杉田はもっているらしく、何度読んでも飽きない秘密はおそらくここにある。家元が得意とした「芝浜」や「鼠穴」といった約束と運命の変転を扱った落語を手がかりにすると、ひと味違った観点からの藤子・F論が生まれそうだ。そうした論も読んでみたい。(おの・しゅんたろう=文芸評論家) ★すぎた・しゅんすけ=批評家。著書に『宮崎駿論』『ジョジョ論』『戦争と虚構』『長渕剛論』『無能力批評』『非モテの品格』など。一九七五年生。