――聞こえない親と聞こえる子のあいだの別の言葉――北條一浩 / ライター週刊読書人2021年4月9日号きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる著 者:イギル・ボラ出版社:リトルモアISBN13:978-4-89815-532-5 最初に断っておかなければならない。評者は、著者のイギル・ボラさんが監督した同名タイトルのドキュメンタリー映画を見ていない。だから本当は書評する資格に乏しい。それでも書こうと考えたのは、なによりもこの私のように「無知」な人こそ、読者として最適であり、手に取ってもらいたい欲望に突き動かされたからだ。 コーダ(CODA=Children of Deaf Adults)をめぐる本である。音が聞こえない人、ろう者の両親に生まれた聞こえる子の話。たったこれだけの情報でも、脳内にはさざ波が立つはずだ。親子間のコミュニケーションはどうしたのか? どのように教育したのか? 子どもでありながら介護者のような役割になるのだろうか、etc……。 そのようなあいまいな波は、読み進むうちにどんどん消されていく。そうした疑問が発生する前提が、ある偏見と多数者の文化の中のみで成立するものに過ぎないことを思い知らされるからだ。「聞こえない」人を聴覚障害者と呼ぶのは、世の中に「聞こえる」社会しか想定していないからで、そこで生きるしかないかわいそうな、そして差別の対象となる存在だから。対して本書で描かれるのは「ろう」という異文化を生きる人々とその子どもであり、つまりは障害者についての本ではなく少数者についての本である。そして著者は少数者と多数者のはざまで生きること、幼い頃から両者間の翻訳者であることを宿命づけられている。 著者の母、ギョンヒさんの語るエピソードで、胸が張り裂けそうになる箇所がある。「ある日お母さんと意思疎通ができなくていらいらしていたの。それで庭に転がって土を口に入れて泣いたわ。お母さんは何もせずただじっとしていた」 ギョンヒさんが三歳の頃の話だ。「二歳の時に熱病にかかって耳が聞こえなくなる」状況を知りながら、両親も兄弟も本当には「聞こえていない」状態がどんなものか、理解していなかった。三歳児の側にしてみれば何がどうなっているのかわからず、あまりにも残酷な状況である。 そしてイギル・ボラさんの場合は逆だった。聞こえる親と聞こえない子、ではなく、聞こえない親と聞こえる子。時代は変わり、両親とボラさんのあいだには別の言葉があった。手話(本書では「手語」と表現される)だ。 手で話すとはどういうことか。本書にはその実際と、手話という文化の受容にいたる困難と闘い、悲しみ、そして喜び、手話のうつくしさ、強さ、さらに「手の動きより重要」とされる顔の表情、その筋肉について詳述されている。「聴者は誰かを歓迎したり祝う時、拍手をして音を出すが、ろう者は別の方法で拍手をする。両腕を高く上げ手のひらをひらひらと左右に回転させて、視覚的な拍手の音を作り出すのだ」 このくだりを読んだ時、思い出したことがあった。もう二〇年くらい前だが、今は無くなってしまった渋谷のカレー屋で一人で食べていた時のこと。途中でふと店内の照明が明るくなった気がして振り返ると、後ろで二人の男性がさかんに手を動かしながら会話をしていた。ろう者の二人だ。ひっきりなしに手を動かし、心からうれしそうな笑顔でいつまでも話がやまない。私は今までこんなものは見たことがないと思い、しばし見とれながら、「明るさ」が間違いなくここから来ていることを了解した。同時に、いつもうるさい渋谷の街が、その時はほんとうに静かできれいだった。 あのささやかだけれど大きな「異文化」体験と本書は、ほんとうによく似ている。(矢澤浩子訳)(ほうじょう・かずひろ=ライター)★イギル・ボラ=映画監督・作家。韓国出身。韓国芸術総合学校でドキュメンタリー制作を学ぶ。監督作に『きらめく拍手の音』など。一九九〇年生。