――自覚できない深い欲望に囚われる恐ろしさ――杉田俊介 / 批評家週刊読書人2021年6月18日号小説 火の鳥 大地編 上著 者:桜庭一樹(著)/手塚治虫(原案)出版社:朝日新聞出版ISBN13:978-4-02-251743-2 マンガは実在する現実を写生するのではなく、定型的な記号の組合せによって世界を形式的に構築する。それが手塚治虫の提唱した「マンガ記号説」である。この考え方に従うならば、マンガにはもとより、断片的な記号によって有機的な生命(アニマ)を表現する、というパラドックスが内在している。それはたとえばアトムや百鬼丸のようなキャラクターたちのアイデンティティとも深く関わるし、さらには、非民主主義的な敗戦処理によって戦後民主主義の理念を構築せざるをえなかった、という戦後史の起点にあるジレンマとも重なってくる。 近年、戦後日本におけるマンガの神様としての手塚治虫を甦らせるための、様々なプロジェクトが行われてきた。過去の手塚作品のアニメ化、続編、二次創作ばかりではない。たとえば人工知能を使って手塚治虫の新作マンガを描く、という「TEZUKA2020」の試みがあり、その一部は『ぱいどん』として実現された。あるいはその前身として、手塚治虫本人のような創造性を持ったAIを誕生させるという「手塚治虫デジタルクローン」計画もあった。ここにもパラドックスがある。なぜなら手塚は他方では、人類が科学技術によって徒らに生命を弄ぶことに警鐘を鳴らし、『火の鳥』でも不老不死のグロテスクな恐ろしさを描いてきたからである。 手塚のライフワーク『火の鳥』は、生前に「太陽編」までが完成していたが、構想として「大地編」「再生編」「現代編」の計画があったという。本書『小説 火の鳥 大地編』は、手塚が残した「大地編」の構想を踏まえて、直木賞作家の桜庭一樹が大胆に小説化したものである。 舞台は一九三八年、日本占領下の上海。日本軍はタクラマカン砂漠に生息するという伝説の火の鳥の調査隊を結成する。火の鳥シリーズの登場人物に限らず、手塚治虫ワールドにおけるお馴染みのキャラクターたち(をモデルとした人物たち)が集合し、あるいは川島芳子、山本五十六、東条英機、石原莞爾などの実在の人物たちも登場する。関東軍、財閥、中国共産党、上海マフィアなどの複雑な陰謀と思惑が交錯していく。史実とマンガが入り乱れ、誰もがスパイであり裏切者であるような、ポストモダン/ポストトゥルース時代の娯楽小説と言える。 重要なのは、本書が手塚的想像力を現在において次のようなものとして受け止め、更新しようとしたことだろう。すなわち本書が設定した火の鳥の力とは、不老不死を与える力ではなく、何度でも歴史をやり直すという歴史改変の力なのである。日本軍は火の鳥を利用して、何度となく、歴史を自国にとって都合のいいものに誘導しようとしてきた。しかし翻ってみれば、日本近代史には、もとよりそうしたゲーム的(ループ的)な歴史改変の欲望が底流し続けてきたのではないか。そしてそれは決して一部の軍国主義者やナショナリストの欲望に限らないのである。 では、火の鳥の真の恐ろしさとは何か。それは火の鳥に関わった人間たちは、老いも若きも、男も女も性的マイノリティも、善人も悪人も、人間的な倫理の枠を踏み越えて、結局は自分の欲望――自分ですら意識的には自覚できていない深い欲望――に囚われてしまうことだ。その意味で、火の鳥とは「魔界の鏡」(下巻二六三頁)とも呼ばれる。とすれば、無限に復活やクローン化の欲望を喚起する「神=手塚」こそが、ある意味では火の鳥なのであり、私たちはもはやそうした「正史=生死」を改変しようとする欲望から解き放たれるべきではないか。本書の主題を、私はそのように受け取った。(すぎた・しゅんすけ=批評家)★さくらば・かずき=「夜空に、満天の星」でデビュー。『赤朽葉家の伝説』で第六〇回日本推理作家協会賞、『私の男』で第一三八回直木賞受賞。一九七一年生。