表現しきれないものを差し出すモノクロ写真 丸川哲史 / 明治大学教授・東アジア文化論・東アジア思想史 週刊読書人2022年3月18日号 写真集 大地と生きる 北米先住民族の矜持著 者:鎌田遵出版社:論創社ISBN13:978-4-8460-2114-6 鎌田遵氏は高校卒業と同時に米国に渡り、先住民たちと寝食を共にするフィールドワークを体験しつつ人類学を修め、そして現在、大学で人類学を教える人物――これまで多くの著作、また写真集を精力的に出し続けている。 全編モノクロ、極めて簡潔な説明だけを巻末に配した本書の作りは、いわゆる人類学者が醸し出す「饒舌」とは程遠く、極めて抑制的である。この抑制が、むしろこの写真集の持つ豊かさを保証している。被写体とカメラとの間に、こわばりのようなもの、つまり「壁」のようなものが感じられない。一見して気付くのはまず、被写体がこちらに返す笑顔だが、それは当然のことカメラを構える人物への信頼感を抜きには考えられない。ただ、私にとってその笑顔は、単にカメラの主に向けられているものではないようにも感ぜられた。だが、一体何にむけられたものか、にわかには言い難い。実のところ、彼彼女たちの笑顔とは逆に、北米先住民が経験した「近代」は全くもって理不尽なものであったに違いない。にもかかわらず、本書の被写体、なかんずくその笑顔には不思議な快活さがある。 その感覚をやや遠回りに探ってみるに、被写体たる人物だけでなく、写されているモノにも注目してみるべきであろう。すると、彼彼女たちの晴れ着や皮膚の装飾にも、また室内のレイアウトや掛かっている額縁にも、あるいは動物や仲間とともに居る時の佇まいにも、何か通奏したリズムとでもいうべきものが感じ取れる。これを逆に言えば、彼彼女たちにとっては、大地も動物も部屋も被服も自身の身体も、つまり全てが何らかのリズムなのだ。もちろんそれは、彼彼女たちを居留地へと押し込めて来た「近代」のロジックとは著しく異なったものである。 敢えてその「近代」を説明すれば、約束ではなく契約であり、リズムではなく規則であり、偶有ではなく私有であり、云々。いずれにせよ、本書の写真群に向き合う者は、彼彼女たちの笑顔が示すものに対して、様々な想いを集めるだろう。かと言って、わけ知りに「宇宙」とか、「先祖」とか、「神」とか、そういった出来合いの言葉で埋めきれるものでもない。その笑顔は、まさに巨大な悲しみと表裏であることは間違いないはずだ。しかしまたその悲しみについても、出来合いの言葉、例えば「滅びゆく〜」とか、「人類への〜」などでは表現しきれないものであるに違いない。端的に、本書は、そのような表現しきれないものを差し出している。 その作り手、鎌田遵氏が目指しているところをキーワードで示すなら、とりあえずは「辺境」ということになりそうだ。だがその「辺境」は単に中心から隔たった場所を示すものではない。北米先住民は、いわば居留区という見えない壁に囲まれているわけだが、鎌田氏が目指す「辺境」とは、むしろ一つの動詞態として、そのような壁をひっくり返す回転舞台のようなものとも感じられる。それは、例えば別の著書において、原子力産業との「共生」を強いられてしまった下北半島の住人と北米先住民居留区を繫げる「手法」、また「足法」の中に生きている。すなわち、鎌田氏が類まれな旅のエッセイストでもあることを申し添えておきたい。 最後に、彼の著作に触れれば、先住民の存在を括弧で括った見地からの北米研究では得られないような感覚があること、これを強調しておきたい。北米社会の持つ深い病理は、やはり先住民にとっての「近代」経験をオミットしては決して考察できない。例えば、合衆国において二つの言説がある――「移民で出来たネーションである」と、それへの反動としてある「米国は移民の国ではない」という言説の二元論がよって立つ地盤、それこそまさに先住民(虐殺)を忘却することで得られるものである。これは、アイヌ人にとって(また在日朝鮮人にとって)の「近代史」が何であるか――こういった視座なしでは、実は日本人が何であるかも分からなくなる、このこととも相似するであろう。(まるかわ・てつし=明治大学教授・東アジア文化論・東アジア思想史)★かまた・じゅん=亜細亜大学准教授・アメリカ先住民研究・カナダ先住民研究・都市計画学。著書に『写真集 アメリカ マイノリティの輝き』『癒されぬアメリカ』など。一九七二年生。