――多岐にわたる分野を横断し象徴を読み解く一冊――柿並良佑 / 山形大学講師・現代フランス哲学・表象文化論週刊読書人2020年4月10日号(3335号)人殺しの花 政治空間における象徴的コミュニケーションの不透明著 者:大貫恵美子出版社:岩波書店ISBN13:978-4-00-024542-5「人殺しの花」――不穏な響きだ。一体どのような恐ろしい毒花が人を殺すというのか。著者が提示するのは日本では桜、西洋ではバラという、あっけないほど「あまりに普通な」植物である。今年は花見の「自粛」が嘆かれるように、桜は多くの人々に愛され、春を、さらには「日本の心」を象徴する馴染みの花。赤いバラは日本でも愛の象徴として花束になるなど、やはり身近な植物となっている。しかし「花咲く桜」があれば「散る桜」もあり、また甘い薫りを放つバラには棘がある。一方が生を象徴すれば、他方には死がまとわりつく。「散る桜」に人生の儚さという甘美な比喩だけではなく、生きて戻ってはこられぬ戦地へと兵士を送り出す政治的機能が働いているとしたらどうだろうか……。 一言で言えば、ある象徴がいかにして政治的プロパガンダの道具として利用されるのか、そのプロセスを明らかにしようとするのが本書だ。ただし特定の社会的・歴史的局面において、桜がどのようにあしらわれたかという事例(特攻機「桜花」の機体に当の花が描かれた、等々)の収集に終始するわけではない。ありありと目に見える象徴の数々を機能させる意味のネットワークの特徴が、副題にある「コミュニケーションの不透明性」というブルデュー由来の鍵語によって繰り返し議論されることになろう。周知のように、我々のメッセージの伝達は明示的な意味や概念の次元のみでなされるのではない。赤や白のバラはときに政治権力を象徴し、ときに労働者や革命の象徴としても用いられるというように根本的な多義性を抱え込んでおり、美的であるだけにいっそう気づかれぬまま社会の成員の間に浸透していく……こうした無自覚かつ不十分なメッセージの送受信が先の「不透明性」なる語で指し示される。じつはその際あぶり出されるのは、我々がいかに「コミュニケーションしていない」ことに気がついていないか、という点なのだ。 花と並んで、「あまりに普通なもの」として日々消費される主食のコメも本書の分析対象だ。ナショナリズムや「国民化」のプロセスにおいて「白米」や「美しき米」といった象徴は集団的アイデンティティの成立に大きな役割を果たす。「我々」が食べる「内地米」は「彼ら」が食べる「外米」より清浄で優れたものとして「日本」を表象する。しかし稲作の歴史に目を向けると、地域・階級によって必ずしもコメは主食であったわけでない。端的に言えば「農業社会日本の上位集団」は「雑穀文化」や「非農業民」を排除あるいは隠蔽することで「日本の米」を味わう統一的国民という自己表象を獲得するのである。 以上のような生から死へのズレや排除のメカニズムは、象徴が多義的かつ美的であるがゆえに「自然に」機能するという点は本書で何度も指摘されることになる。「散る桜」は美しいからこそ「自然に」死地へと誘うよう作用する。炊きたての「白米」も美しいからこそ、「同じ釜の飯を食う」人々の連帯を強化する。別の言い方をすれば、この自然さは「無垢な文化的ナショナリズムに崇高性を与え〔……〕政治的ナショナリズムの象徴に転化」するものとして問いに付されることになる。一つ注意しておくと、著者はこの文化的/政治的ナショナリズムの二つを区別し、前者は国への自発的な愛着、後者は犠牲を含めた国への献身の行為を伴うものだと言う。当然、ナショナリズムと愛国心(パトリオティズム)の区別など、先行する議論を踏まえた考察だが、「自然さ」を生成させる不自然なメカニズムに迫る本書だけに、先の区別はさらなる議論を呼ぶ点でもあろう。 かくして桜とバラの分析から二つの象徴体系の「並行性」が明るみに出されたのに対し、後半部では権力システムの視覚的・聴覚的な象徴による「外在化」の検討を通じて一種の東西比較論的展望が開かれ、「無のシニフィアン」としての天皇を中心とする日本の神権政治と西洋のそれの差異が際立つ格好となっている。神の名を唱えることや偶像崇拝の禁止にみられるが如く、宗教的権威の「非-外在化」は諸種の文化にみられる。これに対し、近代西洋の世俗権力は積極的にポスターやラジオなどのメディアを用いて君主の身体の顕現を利用したが、明治期以降の日本では天皇の「自然的身体ボディ・ナチュラル」(カントーロヴィチ)は徹底的に隠され、菊花紋などによって「天皇制」というシステム=「政治的身体ボディ・ポリティック」のみが象徴されてきた、というのが著者の見立てである。樺太アイヌをめぐる研究から対象を拡大してきた人類学者である著者の議論はギアーツらの文献はもとより、社会学・哲学・政治学など多岐にわたる分野の動向をも視野に収めて理論的な錬成が試みられている。象徴の人類学、そう一言で言えるとしても、単に「見えるもの」の分析ではなく、我々が「見ているはずなのに見ていないもの」、「見えていないのにいつのまにか受け入れているもの」といった「不透明」な対象とシステムの探求に関心を寄せる多くの読書子や研究の徒にとって議論の契機となる一冊だろう。(かきなみ・りょうすけ=山形大学講師・現代フランス哲学・表象文化論)★おおぬき・えみこ=ウィスコンシン大学ウィリアムF・ヴァイラス研究専任教授、文化人類学者。著書に『日本人の病気観 象徴人類学的考察』『コメの人類学 日本人の自己認識』『ねじ曲げられた桜 美意識と軍国主義』『学徒兵の精神誌 「与えられた死」と「生」の探求』『日本文化と猿』など。一九四三年生。