――ともに悩み、痛みを共有しながら想像力を働かせる――白石純太郎 / 文芸評論家週刊読書人2021年10月15日号ケアの倫理とエンパワメント著 者:小川公代出版社:講談社ISBN13:978-4-06-524539-2 ドイツの黒い森にあるヘルマン・ヘッセの故郷、カルフ。そこにある「ヘルマン・ヘッセ博物館」には、ヘッセが持っていた、自殺用のピストルが展示してある。彼が高校生の時に、買ったものだそうだ。私はそれを見たとき、ピストルを一生涯捨てなかったヘッセに「死への親近性」ともいうべき病理を感じ戦慄した。感受性が強く、常に弱者の側に立ったヘッセの豊穣な作品の裏にあったのは、絶えず襲ってくる精神的な病理と苦痛であった。ヘッセの友人でもあり、本書で取り上げられたトーマス・マンも、常にその気質からくる憂鬱症に悩まされながら、自分を律するかのように仕事をし続けた。「病」は、作家に何を与えるのか。本書では、社会の中で「弱さ」として排斥され続けた「病」の持つ可能性を指摘しているように思える。文学者にとって、「病」は想像力の飛翔と表裏一体である。病理は人を、心が普段到達することのないような場所へ導く。著者はその体験を、「カイロス的時間」というタームを用いて説明する。 科学的合理性に基づいた「クロノス的時間」と正反対のそれは精神的、質的豊かさをもたらす。「自立した個」という閉じられた世界が連綿と続くような語りではなく、外界の物理的状況に左右されない、壁に穴の空いたような「風通しの良い」=「多孔的」な語り。この「カイロス的なるもの」こそ、二項対立ではなく、そのどちらをも包含する可能性をもたらすものだ。そこでは男性的なものと女性的なものは混じり合い、「両性具有的」な自己が働く。主人公が初めは男性としてクロノス的時間を生き、その後に女性へと変貌するウルフの『オーランドー』を分析することで著者は、カイロス的な想像力の羽ばたきを見出している。 想像力の横溢する「多孔的なるもの」がもたらす両性具有性は、現実社会ではLGBTQ「問題」として不可避的に現れてしまう。本書でも登場する、三島由紀夫やオスカー・ワイルドの問題はここにある。「ケアの倫理」とは、「かくあるべし」といった定言命法が通用する世界から抜け落ちる人たちを、肯定する営みでもある。弱いもの、虐げられているもの、従来の価値観では捉えきれないものの生を支えるこの倫理は、一九八二年にアメリカの心理学者であるキャロル・ギリガンによる『もうひとつの声』という著作に起源がある。人間とは、根源的に他者との相互依存関係にある傷つきやすい存在であるとし、お互いを尊重しあう思考が「ケアの倫理」だ。そういった人間が、自分の力を発現できるような環境を整備していく視点が、「エンパワメント」の思想である。 すると文学とはそもそも、ケアの倫理が遂行される場ではないか。文学者は悩みながら書き、書いたものによって救済される。救済は読者にも、もたらされる。言葉の力に身を委ねて想像力を働かせることで、ともに悩むということ。そして、何よりも痛みを共有すること。それは、単なるセンチメンタルな共感では断じてない。全ての人間が、自分と同じく「脆弱性」を持った人間として認識することで成立する意識である。そのような志向性のもとでなされる文学は、根源的に倫理的なものなのだ。それは、現代の「生きづらさ」や家父長制などといった、悪しき伝統を覆す力を内蔵しているのだ。(しらいし・じゅんたろう=文芸評論家)★おがわ・きみよ=上智大学外国語学部教授・ロマン主義文学・医学史。共著に『文学とアダプテーション ヨーロッパの文化的変容』『ジェイン・オースティン研究の今』、訳書に『肥満男子の身体表象』など。一九七二年生。