――多には名があると知るための、地道で実直な論証行程が白眉――松本潤一郎 / 大学教員・フランス文学・思想・哲学週刊読書人2020年4月17日号(3336号)存在と出来事著 者:アラン・バディウ出版社:藤原書店ISBN13:978-4-86578-250-9アラン・バディウの名を眼にしたのは一九九三年頃だった。上野俊哉氏が『スタジオボイス』誌上の椹木野衣氏との対談で触れておられたと記憶する。以来三〇年近くの時を経た、バディウの代表的仕事の一つである本書(一九八八)の刊行は、日本語圏におけるバディウ理解にとって実に大きな寄与となる。長らく待ち望まれてきた日本語訳版のこのたびの出来事は大きな歓びである。訳業を成し遂げた翻訳者に深く感謝する。甚大な労苦を費やされたことと思う。本書はバディウの専門的研究に留まらず、哲学に関心を抱く日本語圏の人びとにとって、すばらしいコモンの一つである。 本書は廉直である。叙述は論証的で、〈存在と出来事〉という主題から逸れない。存在の秩序における袋小路が出来事を生じさせる可能性と、出来事と相即的に出現する主体が、出来事と存在のあいだで引き裂かれつつ、出来事を存在の秩序に位置づける方法を論証するプロセスが、論理をスキップせず、実直に論証されていく。特に出来事を存在の域に定着させる方法の論証は煩雑ではあるものの、だれもがそのステップを追って、本書のテーゼを検証できるよう書かれている。明証を目指す点で、本書は哲学的である。哲学は〈平等〉の言説だからである。 尤も本書には論証抜きで前提されるテーゼもある。〈数学は存在論である〉。このアイディアをバディウは連続体仮説の消息から得たという(本書一八頁)。〈論理・理性(ロゴス)〉には抑えることの〈無理・非理性(ア・ロゴス)〉なもの。数学史には時折この裂け目が現れる。言わば、点と線のあいだの深淵(無限)である。この危機との格闘の過程として、バディウは数学の歴史を捉えているようだ。 裂け目は言葉によって――完全を期すことはできないが――ふさがれる。私たちは言葉を使って現実を捉えようとするが、逆に言葉では埋められない、言葉が足りないと思うこともある。周知のように、こうしたことを精神分析家のジャック・ラカンは〈現実的なこと〉という概念で規定し、話すことと存在との緊密な連関という視点から人間を考察した。どうしても言い当てられなかったり、どれほど言葉を費やしても到達できないと感じられたりする何かとの遭遇による言葉の停止。言葉が失調するとき人間は袋小路に突き当たり、自己の存在を確信できなくなる。言葉のほころびから無限がのぞく。ラカンを重視するバディウが数学を存在論と等置する背景には、こうしたことがあるだろう。 存在とは何かが現れることである。現れる何かではなく現れそのものである。数学(集合論)は現れを考えるのに向いている。例えば空集合においては何も現れない。何も現れないことの記号(∅)だけが現れる。現れは全て「多」と呼ばれる。記号は現れの標識である。論理式は現れの諸関係を示す。集合論は存在論である。 フランス語には「ある」の表現が二つある。《エートル》(繫辞)を用いるそれと、《イリヤ》(非人称構文「――がある」)を用いるそれである。ラカンは古来の哲学的トピック〈存在は一か多か〉に係わって、例えば一九七三年のセミネール『アンコール』で《〔il〕 yadel’Un》と述べている。〈一〉を意味する《Un》に非可算を示す部分冠詞《del’》がついており、哲学の言説が与える「統一性」(いわゆる世界観)に対する警戒を示していると思しい(昨年公刊された日本語訳版では「〈一〉部分あり」と訳されている)。〈一〉は部分冠詞つきでのみ「ある」と考えるラカンを意識して、バディウは〈一〉は計算機能であり、そのものとしては存在せず、「多」(存在=空虚の諸集合)だけがあると主張する(本書「省察1」)。ラカンが突きつけた〈反哲学〉に、哲学はどう応答するだろうか。 この点に係わって、バディウはジャン‐クロード・ミルネール(一九四一―)のラカン読解に触発されている面がある。本書原注に数箇所、ミルネールへの言及がある。彼は元々言語学者であり、ラカンの思考を言語学に組み込む仕事を行なってきた。その後は文化論、社会・政治批評的エッセイを発表しており、例えばスラヴォイ・ジジェクは彼の仕事をしばしば参照している。昨年ミルネールとの討議を収めたバディウのセミネール『ラカン:反哲学3』が日本語訳された。『存在と出来事』刊行後のセミネールであり、哲学と精神分析の関係をより深く検討している。 バディウは「知」を分類および識別と定義する。分類も識別もできないものは名づけられない。名づけられない多が、名を基に多を統制する存在の秩序にねじれを加える。これが存在の袋小路であり「出来事」である。そして「主体」にとって袋小路そのものが通路である。主体は識別できない出来事(多)を「真理」として、存在の秩序の中へ埋め込む。真理は知に空いた穴であり、且つ状況の真理である。状況における識別不可能な多から、状況を拡張して、多の量に関する決定不可能な言表を、但し状況にも拡張された状況にも適合的に繰りだすことが、真理を存在の秩序に置く主体の作業である(ラカンが解任した主体は、ここにおいてのみ現れる)。この問題にとりくむ「省察33」「34」「36」は本書で最も煩雑である。状況の拡張に向けて、多の識別不可能性を損なうことなく、多を捉えようとするからだ。この作業には名が用いられる。多に名を与えるのではなく、その多には名があると知るためである。その地道で実直な論証行程が、本書の白眉である。なお一九六九年、『分析のための手帖』誌にバディウは「無限小の転覆」という論文を発表する。ライプニッツの〈無限小〉を復権させた超準解析に示唆を受け、無限を潜めた点が既存の概念体系全体を刷新すると説く趣旨の同論文に、すでに本書に結実するアイディアは胚胎していたと思われる。 『存在と出来事』刊行後、バディウは続刊『世界の論理』(二〇〇六)で、真理が然々の世界に出現する仕組みを研究し、さらに二〇一八年、真理の絶対性を可能にするものを考察する『真理の内在』を公刊した。これらはまとめて〈メタフィジカル・サガ〉とも呼ばれる。彼は前著への自己批判としてこのプロジェクトを続けてきた。このサガには不可逆的な歴史と批評が刻まれている。本書オリジナル版刊行後に出た書評の一つ、ジャン‐トゥサン・ドゥサンティ「アラン・バディウの内因的存在論への註記」(『モダン・タイムズ』五二六号、一九九〇)がなければ、或る意味で『世界の論理』は書かれなかっただろう。この経緯は日本語訳されている『推移的存在論』(水声社、二〇一八)に少し伺われる。同書には『世界の論理』の前哨といった面もある。参照されたい。他者からの批判を受けとめつつ前言を翻さず、前著から十五年後に続篇を公刊し、その十二年後にさらなる続篇を公表する彼の持続力には脱帽する。状況を変えて消え去る無名の存在たちの物語群。本書はその第一部である。(藤本一勇訳)(まつもと・じゅんいちろう=大学教員・フランス文学・思想・哲学)★アラン・バディウ=モロッコ・ラバト生まれ。フーコー、ドゥルーズ、デリダなき後の、フランス最大の哲学者。パリ第八大学哲学科教授、高等師範学校哲学科教授を経て、現在、高等師範学校名誉教授。著書に『条件』『世界の論理』『ドゥルーズ――存在の喧騒』『推移的存在論』『ラカン』など。一九三七年生。