――〈共同での存在〉に触れる政治的パッションの問い――西山雄二 / 東京都立大学教員・フランス思想週刊読書人2020年8月21日号モーリス・ブランショ 政治的パッション著 者:ジャン=リュック・ナンシー出版社:水声社ISBN13:978-4-8010-0486-3モーリス・ブランショは小説家・文芸批評家として知られているが、一九三〇年代には青年右派の立場で多数の政治記 事を書き、六〇年代にはアルジェリア戦争における不服従の権利を唱え、五月革命の渦中で「エクリチュールのコミュ ニズム」を実践した。五〇年代、ブランショは書くという営みが非人称の彷徨をもたらすという「文学空間」を提唱し 独自の地平を切り開いたのだが、戦前と戦後で右派から左派へと政治的に「転向」したのだろうか。本書はそんな文学 者の政治参加に関する謎に一石を投じる書である。 本書に収められているのは、モーリス・ブランショによるロジェ・ラポルト宛ての書簡(一九八四年一二月)、ディオ ニュス・マスコロによるフィリップ・ラクー=ラバルト宛ての書簡(同年七月)、これに対するジャン=リュック・ナ ンシーの解説である。 一九八四年、『カイエ・ド・レルヌ』誌でブランショの特集号が計画された。当時、三〇年代のブランショの政治的態 度をめぐって、糾弾と擁護の対立が起こっていたからである。ヨーロッパ文明が揺らいでいた両大戦間期、若きブラン ショは、同時代の非順応主義的な青年達と同じく、フランスの退廃的現状を批判し、精神的価値の復権を目指して革命 を唱えた。さらに、彼の反権力の主張は反ユダヤ主義者的な態度をともなっており、戦後、そうした過去が清算されな いまま非難されたのである。特集号は多数の人々が執筆依頼を断ったため中止されたが、本書では二つの書簡とともに 当時の論争があきらかにされている。 本書はこのように、やや込み入った歴史的背景をもとに成立しているため、一般読者、さらにはブランショの小説や批 評に親しんできた読者が理解しにくいかもしれない。ただ、訳者の懇切丁寧な訳註と的を射たあとがきは充実したもの で、日本語読者ならではの幸運な利得と言っていい。ブランショの『問われる知識人』や『政治論集』を翻訳した訳者 の熟達した訳文には安定感がある。あとがきではブランショの政治的な立場をめぐる論争が解説されるだけでなく、三 〇年代のフランスの政治的布置、ナンシーとブランショの共同体論の相違点、キリスト教の自己展開から導き出される 有神論と無神論などが明解に示されている。 ブランショの糾弾と擁護の論争において、シャルル・モーラス「の名が周到に避けられているように見える」という訳 者の指摘は、本書を読む上での社会的文脈をさらに広げてくれる。モーラスは二〇世紀初頭に政治同盟「アクシオン・ フランセーズ」を立ち上げ、王政復古を掲げて反共和主義を主張し、ときには暴力的な直接行動も辞さなかった。また 、文学者でもあったモーラスの詩文は三〇年代の非順応主義的な青年達を魅了していたのだった。 表題にもなっている「政治的パッション」はブランショの書簡の結尾にみられる。ナンシーによれば、この表現には「 燃え盛っている精神」と「極限まで、極限によって張り詰められた一つの思考」という二つの側面がある。三〇年代ヨ ーロッパの政治的混沌を生きたブランショは、「「右派」や「左派」などが問題なのではない」、「政治には還元され えない〈共同での存在〉の圏域」に触れていたのだ。政治的な「興奮」が「思考」に変容する地点があるのだろうか。 ナンシーがその回答を留保しつつ示唆するように、これは過去の話ではない。「右派」と「左派」の軸が揺らぐなかで 民主主義の居心地の悪さが感じられ、政治制度の原理の再考が迫られる今日においても回帰している核心的問いなので ある。(安原伸一朗訳)(にしやま・ゆうじ=東京都立大学教員・フランス思想) ★ジャン=リュック・ナンシー=フランスの哲学者。著書に『無為の共同体』『ミューズたち』『侵入者』など。一九 四〇年生。