――デカルト自身の証言で読み直す21のテーゼ――斎藤慶典 / 慶応義塾大学文学部教授・現象学・西洋近現代哲学週刊読書人2021年12月31日号・2021年12月24日合併デカルトはそんなこと言ってない著 者:ドゥニ・カンブシュネル出版社:晶文社ISBN13:978-4-7949-7268-2 本書に対する期待は、半ば充たされ、半ば充たされなかった、ということになるだろうか。 まず、充たされた面について述べよう。哲学のテキストを読むにあたっては、そのテキストが考えようとしている事柄が斬新で独創的なものであればあるほど、細心の注意が要求される。第一、それがこれまでほとんど考えられてこなかった事柄や見方に関わるのであれば、一読しただけでは何を言っているのか分からない。読者が前提にしている思考の枠組み自体が解体されているのだから、そもそもどう読んだらよいか分からないのだ。 では、どうすればよいのか。何度も読み返すしかないのである。最初の分かれ道は、そもそも当のテキストが何度も読み返してその内容を理解しようと努めるに値するものかどうかの判定にある。この判定は、いまだその内容が定かに見えない時点でなされるのだから、一種の賭けであり、出会いのようなものだ。哲学に関心をもつ人なら、デカルトほどの有名人は避けて通ることができない。とはいえ、誰もが彼のテキストに、自らの思考にとってかけがえのないものが隠されているのではないかと、予感のようなものを覚えるとはかぎらない。 この点で本書が優れているのは、デカルトについて世上で流通している大雑把な理解(それを二一のテーゼに集約している)に抗して、それぞれの論点に関して彼が実際は何と言っているかを、哲学史家として彼の文献に精通している著者が生のテキストを以って提示してくれていることだ。いわばデカルト自身の証言だが、一般の読者にはなかなか目の届かない書簡類からも、豊富に引用されている点がありがたい。彼の思考の佇まいにその現場で接することによって、そこに自らの思考に響くものが隠されているか否かを、読者自身が嗅ぎ分けることができるからだ。 そのようにして、幸いデカルトを何度も読み返したとする。そこで浮かび上がってくるのは、思考の精髄が文章の細部にこそ宿っているということなのだ。新たな思考の事柄を語るため、彼が極度の集中の中で練り上げた文章の一言一句、どのような副詞を用い、どこに句読点を打つのか……。それらがすとんと心に落ちるようになったとき、ようやく彼が何を考えようとしていたかがくっきりと姿を見せ始める。 しかし、デカルトがそれらの文章を書いたのは一七世紀の前半、日本で言えば桃山から江戸の初期であり、現代の読者からの時間的隔たりは大きい。加えて、当時の学者の公用語であったラテン語と俗語であるフランス語の両言語に、彼のテキストは跨っている。この点でも、両言語の当時の表現の仕方に深い学識を有する著者のアドバイスが先の生のテキスト(もちろん翻訳だが)に添えられている本書は、現代の読者の理解を大いに助けてくれる。以上を要するに、デカルトに関して何かを考えようとする者は、専門家/一般読者を問わず、少なくとも本書に提供されている彼の生の証言に目を通してからでなければ、何も言う資格はないということだ。 では、本書で何が充たされなかったのか。そうしたテキスト群を通して、結局のところ何を彼が言いたかったのかを考える手がかりが、いささか少なすぎるように思われたのだ。なるほど本書のタイトルは、『デカルトはそんなこと言ってない』である(原書もこの通りだ)。 世上で彼に帰せられている見解の数々はテキストの粗雑な読みに起因するもので、実際には「言ってない」ことが生のテキストの提示によって説得的に語られてはいる。だが、引証されているテキストだけでは、彼が当該の論点に関して何を言いたかったのかがいまだ見えてこないのだ。 一例だけ挙げよう。デカルトと言えば誰もが、「私は考える、だから私は在る」という命題を思い浮かべるだろう。本書は、この命題を彼の「大発見」とする、よくある見解を槍玉にあげ、斥ける(第六章)。類似の考えがすでにアウグスティヌスに見られることについては早くから指摘されてきたし、デカルトもそれを知っていたこと、書簡でそのことに言及もしていることが引証されている。その上で、この命題の中に「哲学の第一原理」が隠れていることの発見こそが彼の独創であり、その鍵語が「考える」であることの指摘も当を得たものだ。つまり、『方法序説』第四部に登場して人口に膾炙したこの命題は彼の独創の最終的表現ではなく、せいぜいその入り口であって、その独創の独創たる所以は『省察』の「第二」の中に探し求められるほかないのである(もちろん、このことも示されている)。 だが、ここまでなのだ。そこでの「考える」がいったいどのような事態であるがゆえに、「哲学の第一原理」たりうるのか。それが明らかにされてはじめて、デカルトが哲学史上に燦然と輝く巨星たる所以に、読者は自らの思考を振り向けることが可能となる。だが、この点についての著者の見解を、本書の内に窺うことはできなかった。 もちろん、これはデカルト解釈上の大問題だから、それを論じるだけで優に一書が必要なことは分かる(実際、『省察』についての著者による包括的注釈書の第二巻がこの「第二」省察のみに充てられており、しかも未刊とのことである)。しかし、彼のどの文言が決定的と著者が考えているか、せめて示唆でもあればと思うのは、欲張りすぎだろうか。その文言があれば、読者が自ら思考を始める手がかりにはなるからだ。 総じて本書は、確かにタイトルに明示されている通り、デカルトが言ってないのに彼に帰されている見解を正すことに主眼があり、では何を彼は言わんとしたかについて語ることには禁欲的だ。とはいえ、後者の点について著者が十分な見識を具えているであろうことは、それぞれの論点について著者によって書かれた論考への指示が註に付されていることからも窺える。これも一例のみ挙げる。「考えること」を本質とする実体(精神)と「延び拡がること」を本質とする実体(物すなわち身体)が、確かに私たちの下で同居し「合一」している。その両実体の関係に、デカルトは晩年の『情念論』で粘り強い思考を差し向けている。この『情念論』の精緻な読解に捧げられているのが、著者の名を高からしめた二巻本の大著『情念の人』(一九九五年)なのだ。そうであれば、この論点について著者が何を示唆してくれるかと期待せずにはいられない。 だが、残念なことにそれらの論考のほとんどは未邦訳であり、わが国の一般読者にアプローチの術はない。このあたりが、本書に対する不満ないし物足りなさの由って来たる所以なのだろう。とはいえ、本書の邦訳者である津崎氏をはじめ、著者との交流があったり、その下で学んで薫陶を受けた優れた学者がわが国の学界で活躍されている。こうした人たちによって、いずれ著者の読解の核心が何らかの仕方で紹介され、検討されるに違いない。そのような機会が早く訪れることを願う。(津崎良典訳)(さいとう・よしみち=慶応義塾大学文学部教授・現象学・西洋近現代哲学)★ドゥニ・カンブシュネル=パリ第1大学パンテオン=ソルボンヌ校名誉教授。一九五三年生。