――「問い、考え、聴き、問い返される」中で、他者や自己と出会い直す――永井玲衣 / 立教大学兼任講師・哲学・倫理学週刊読書人2020年12月4日号こどもと大人のてつがくじかん著 者:ミナタニアキ・安本志帆(著)/犬てつ(編)出版社:LandschaftISBN13:978-4-910238-00-5 近年、急速な広まりを見せている哲学対話。哲学対話とは、問いについてひとびとと聴きあい、考える営みであると言えるが、明確な定義は存在せず、日本ではそれぞれの地域や場面、状況に応じて様々な形に展開している。だがそこがむしろ哲学対話のよい部分であり、こどもと大人が対話する場である「犬てつ」もまた、愛知県犬山市という地域とそこに集うひとびとに密着した仕方で、主催者の慎重な思考と誠実なチャレンジ精神に支えられ、独自の発展を遂げている。本書は犬てつで行われた「てつがく対話」の三年間の記録となっており、活動の普及のための安易な普遍化としてではなく、一つの実践の記憶としてささやかに提示されている。 しかしながらその内容は力強い。本書で繰り返し用いられる「思考の自由」という言葉は、まさしく犬てつにおいて獲得されようとするものだろう。「いい子って何」「言っていいことと悪いことのちがいって何」といったいわゆる哲学的な問いから「なんでウンコでみんな笑うの」などのユーモラスかつ深淵な問いを重ね、参加者は思い込みや前提からやさしく解放されていく。犬てつでのてつがく対話は「正解」「いいこと」を競い合う場では決してなく、互いに「問い、考え、聴き、問い返されるという繰り返し」の中で、他者や自己と丁寧に出会い直そうとする試みである。それゆえ読者は、そうした場に参加する子どもたちが、哲学の面白さだけでなく、型から解放された見知らぬ自己を発見していく過程を目の当たりにすることができるだろう。 だが、本書で描かれるのはこうしたすがすがしい自由だけではない点が重要である。多くの対話がそうであるように、犬てつもまた、ひとびとが憩い安らうだけのユートピアではない。てつがく対話は、傷つき、困惑、苛立ち、苦痛といった沈鬱さも連れてくる。ここで自由という語を吟味せず無邪気に用いれば、それはすぐさま「犬てつは参加自由の場なのだから、嫌な思いを少しでもしたのならば、今後は来なければいい」といった仕方で「自由」を保証する、不干渉という責任の放棄に滑り落ちる危険性がある。だが犬てつは、苦痛に顔を歪めながらも対話のコンフリクトをじっと見つめ、その状況自体を「問い」にすることで、そのしんどさに立ち止まろうとした様子が描かれている。「自由」とは「自分で何でも決めていい」と捉えられがちだが、そこには「その代わり、その選択に関するものごとには干渉しない」という無関心が潜んでいる。だからこそ、犬てつで繰り返される「自由」という言葉は、わたしたちに問いかける。なぜなら、本書の至るところで垣間見えるのは、真の自由を得るために、ひとびとがその場により関わり、放置せず、関心をもち、ケアのあり方を模索する姿だからである。こうした模索が押し付けがましくなく、むしろ読み手の問いとしても共有されるのは、実践者の「わからなさ」をそのまま率直に書いているからだろう。きらびやかな教育効果や、うつくしい成功体験をうたう書は多くあるが、本書はむしろそうした光り輝く世界からあえて一歩身をひき、読み手と共に考えようとしているように思える。また、犬てつは理性偏重的な哲学からも距離をおこうとしている。「触る、聞く、見る」という身体性を重視した対話、想像力を働かせる対話、言葉に限らない対話。哲学は犬てつによって、新たな光を当てられる。こうした営みもまた、凝り固まった哲学観から自由になることなのかもしれない。(ながい・れい=立教大学兼任講師・哲学・倫理学) ★ミナタニアキ=「犬てつ」主宰・インディペンデントキュレーター。美術館で学芸員として働いたのち、フリーランスで展覧会のキュレーション、執筆・編集の仕事を行う。★やすもと・しほ=哲学対話ファリシテーター・コーディネーター・「みんなのてつがくCLAFA」代表。幼稚園教諭を経て、異業種間の哲学対話の企画運営や当事者研究などに従事。★犬てつ=愛知県犬山市を中心に、こどもと 大人の「てつがく対話」を行っている市民活動団体。二〇一八年に設立。