この二〇年を振り返り、今後を展望する 宮崎刀史紀 / 公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団 ロームシアター京都管理課長週刊読書人2022年1月28日号 文化資源学 文化の見つけかたと育てかた著 者:東京大学文化資源学研究室(編)出版社:新曜社ISBN13:978-4-7885-1743-1 赤裸々である。それはもちろん、木下直之氏による「集中講義 猥褻論」が収められているからというわけではなく、錚々たる研究者たちが、入れ替わり立ち替わり研究対象や視点の魅力を存分に開陳するとともに、ふと「文化資源学」という言葉を持ち出す瞬間の戸惑いまで一緒に、ありのまま語っているゆえだ。この名にして「一般向けとして初めての本」というわりに、戸惑いや課題も含めた魅力を気負わず描き、まさにありのままの「文化資源学」がここにあるような気にさせてくれる。 それは本書が、二〇〇〇年に東京大学の人文社会系研究科という大学院に、「文化資源学研究専攻」という新しい専攻が生まれ二〇年を経過したことを契機として、これまでを振り返り、今後を展望する、という目的で編まれたことにも由来している。同専攻は、文化経営学、形態資料学、文字資料学の三コースで生まれ、現在は、文化資源学と文化経営学の二コースで、社会人学生も多く受け入れている。 三部構成となっており、第一部「おと・ことば・かたち」は、新専攻の中心となってきた、渡辺裕・木下直之・佐藤健二の三氏の論考。発車メロディ、春画、個室といったものを取り上げながら、それぞれ、著作権、猥褻、公/共/私といった概念や分析枠組みを捉えなおし、「文化」のあり様を浮かび上がらせる。第二部「見つけかた」では、六人の研究者が研究対象やその特徴をいかに「文化資源学」として見つけてきたのかを、絵巻、葬儀、ゲーム、在日米軍基地、映画、製本といったものを題材に示す。そして、第三部「育てかた」では、いわば「文化資源学」そのものを対象に、「文化経営学」の意図や背景、新専攻生まれの博士論文の分析を踏まえた「文化資源学」論文の類型、そして、文化資源学は国際展開可能かという問いを通した現状の整理と今後の展望といったものが語られる。 かつて「文化の時代」とはよく言われたが、今や「文化資源の時代」かと思えるほど、この言葉を頻繁に聞く。文化庁には文化資源活用課もあり、地域で「文化資源マップ」が作られたり、いくつかの大学には「文化資源学コース」のようなものもある。「文化」でなく、「文化財」でもなく、「美術」や「博物館」でもない。そうした言葉や関連諸学が抱える価値観、枠組みから改めて距離をおき、あるいは、まだ「文化」や「美術」といった世界に入る前のモノやコトを取り上げ、また「活用」したりする際の、いわば旗印として「文化資源」という言葉が重用されているようである。本書の論考はそうした様々な境目を感じさせ、「文化」や「社会」のあり様をそんな視点から浮かび上がらせる行き来の数々であり、この二〇年の間の社会や技術の変化などが新たな研究手法や問題設定、様々なモノやコトの「資源化」につながっていることにも触れているが、そもそも「流行り」を気にするそぶりはあまり見せず、研究者それぞれの「資源」を探り当てる高度な能力と、それを支え根源へ迫る卓越した知見が「学」につながっていく基本だということをそっと強調しているようにも感じられた。既存の学問分野等でも研究対象や視点が広がってきている中で、「文化資源学!」と口にする時の戸惑いの背景はこうしたことでもあるのだろう。あえていうなら、モノやコトの魅力をもとに、既存の学問にも精通しつつ、その境目近くを歩き、枠組みを揺さぶってみたいという人々が出入りする道場のような場がこの「文化資源学」であり、社会人学生の参画も相まって、そこに集う気概溢れた「文化資源学派」が生み出されていった二〇年だったということではないか。 さて、本書でいう「文化の育てかた」という言葉はどこまでを見ようとしているのだろうか。「見つける」は人文系の昔から変わらぬ本性のような気もするし、本書でも中心であるが、「育てる」はまた異なる要素を持つ営みであり、「資源」と聞いてこちらに関心をもつむきも少なくないだろう。文化資源学が今後さらにどう育っていくのかも含め、注視していきたい。(みやざき・としき=公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団 ロームシアター京都管理課長)