――個の側に立ち、その尊厳に光を当て、語るエッセイ・書評集――中村唯史 / 京都大学教授・ロシア文学・ソ連文化論週刊読書人2020年6月26日号(3345号)ロシア万華鏡 社会・文化・芸術著 者:沼野恭子出版社:五柳書院ISBN13:978-4-901646-36-9本書には、『アヴァンギャルドな女たち ロシアの女性文化』(五柳書院)、『夢のありか 「未来の後」のロシア文学』(作品社)、『ロシア文学の食卓』(NHKブックス)などの著作や、『魔女たちの饗宴』(新潮社)他による現代ロシア文学の翻訳紹介、NHKロシア語講座や共著『大学のロシア語Ⅰ・Ⅱ』(東京外国語大学出版会)等で日本のロシア文学研究・ロシア語教育を牽引してきた著者が、二〇〇六年から一八年にかけて、さまざまな場所に書いたエッセイや書評が集められている。その対象は文学、絵画、映画、歌、料理等々、じつに多様で、著者の関心の広さには驚くほかはない。 そのような本書を貫いているのは、国境やジャンルといった既成の枠組を脱した自由な思考だ。著者は、マンハッタンの物乞いが自分の前の段ボールに掲げていた「Need a Miracle」というフレーズから、ポーランドの詩人シンボルスカの『奇跡の市』や、ロシアの作家ウリツカヤの短篇『キャベツの奇跡』を連想したり、日本におけるボルシチの受容の問題から外国文学の翻訳における「同化」と「異化」の二つの志向を連想したりしている(「二二のプロムナード」)。本当は人間の生活にかけがえのないものなのに、これまで考察対象として重視されてこなかった料理や嗜好品への関心も、従来の思想重視の文学研究の外に出る試みと言えるだろう(「第一章・社会編」)。 とはいえ、多面的な本書の白眉はやはり、主に現代作家に関する文章をまとめた「第二章・文学編」だが、ここにもペトルシェフスカヤ、ウリツカヤ、アレクシエーヴィチ、アクーニンなど、著者自身が主要作品を翻訳し、個人的にも親しい作家たちの文学以外の活動についての言及がある。プロコフィエフなどの音楽家、ヴォドラスキンや大石雅彦などの研究者による創作への注目も、この著者ならではのものだろう。「第三章・芸術編」収録の「歌が私たちの呼吸する空気になった」も、オーソドックスな文学研究では必ずしも重視されてこなかった、一九六〇年代ソ連の「弾き語り文化」の小史である。 著者は考察対象のアーティストや作家に、ときに自身の理想を託しているかのようだ。たとえば「衣服の二重性」は、社会主義革命を経てもロシアの地を捨てることのなかったファッション・デザイナー、ナジェージダ・ラーマノワの略伝だが、革命をはさんで「貴族のクチュリエ」から「民衆のデザイナー」へと変貌しようとも、衣服の機能性と機動性を追究し続けたというラーマノワの姿は、女流作家や体制批判的な作家を論じる際にも一義的な評価を下すことなく、一貫して多面的に細やかに論じてきた著者自身に重なって見える。『戦争は女の顔をしていない』他でノーベル文学賞を受賞したドキュメンタリー作家アレクシエーヴィチに関する小文「新しい哲学」中の、「私たちはみな未来に対して責任がある」という凛とした一文もそうだ。 題名にふさわしく華やかで楽しい本書だが、著者は声高にではなく、そっとではあるけれども、ときおり倫理的な決意をのぞかせている。特に印象深いのは、ウリツカヤ論の表題ともなっている「混乱の中に尊厳を」という言葉だ。イデオロギーや政治体制、国家や民族といった既存の理念が揺らいだ末にもう一度亡霊のように回帰しつつある、冷戦構造崩壊から今日までの過程で、著者は迷わず、それらを脱することの方を選んできた。たとえこれを混乱と見る意見があろうと、個の側に立ち、その尊厳に光を当て、語ってきたのである。 世界が今後どうなっていくのかは、ほとんど誰にもわからないが、本書の著者はこれからも境界を越え、枠組を脱して思考し、書いていくのだろう。国や民族を分かつ敷居が急速に復活しつつあるようにも見える現在、そのような姿勢が持つ意味は、ますます大きなものとなってきている。(なかむら・ただし=京都大学教授・ロシア文学・ソ連文化論) ★ぬまの・きょうこ=東京外国語大学教授・ロシア文学・比較文学。翻訳家。著書に『アヴァンギャルドな女たち』『夢のありか 「未来の後」のロシア文学』など。訳書多数。