――『國體』を読み解き「思考の型」を抽出する――與那覇潤 / 歴史学者・日本近現代史週刊読書人2020年5月22日号(3340号)皇国日本とアメリカ大権 日本人の精神を何が縛っているのか?著 者:橋爪大三郎出版社:筑摩書房ISBN13:978-4-480-01694-2時宜を得た書物である。奥付の刊行日は三月十五日。後記によると前年の春に脱稿したそうだが、期せずしてコロナパニックの渦中に世に問われた本だ。 四月十四日に田原総一朗氏が、ウイルスとの戦いを「第三次世界大戦」と呼ぶ比喩を安倍晋三首相の言として紹介、遅れて大手紙も一斉に報じた。十七日には小池百合子都知事が会見で「撃ちてし止まん」の語を用いて決意を表明、ネットで好評を博したという。 「撃ちてし…」は古事記から採った戦時下の標語で、当時から語義は曖昧だったようだ。ウイルスは「罹患して免疫をつける」ことができるだけで、敵機のようには撃ち落とせないのだが、そんなことは誰も気にしないのだろう。実際に「打ちてし」と表記する報道に接すると、もはや完全に意味がわからない(厳密には語尾も「止まむ」が正しい)。 こうした政治家や、それをありがたがる国民大衆の心性には、コロナ以上に重篤なウイルスが巣くっている。本書の用語でいえば「皇国主義」であり、その聖典が一九三七年三月に刊行された『國體の本義』(以下、『國體』)だった。 狂信的なイデオロギーとして退けられがちな『國體』を、橋爪氏は丁寧に読み解き、むしろ今日の私たちにまで通底する「思考の型」を抽出してゆく。『國體』は天皇機関説を排撃した書物なので、分析上は「天皇親政説」の語も用いられるが、私見では天皇の存在それ自体は、あまり大事ではないと思う。 宗教を切り口とした比較社会学の書物で知られる氏は、『國體』が謳いあげる日本人の秩序観に、「契約」の発想がないことを強調する。ユダヤ教に比べると神話上の契約が不明瞭で双務性を欠き、儒教的な「有徳者であってこそ君主たりえる」といった条件づけもない。まして、近代西欧的な社会契約論の発想は排されている。 人為的な約束事を通じて社会を組織し、その範囲内に限って権力を行使する発想は、この国には(いまも)ない。あるのは、太古の昔から契約ぬきでも「なんとなく」一体感をもって存続してきた、疑似自然的な秩序である。経典をもつ創唱宗教にまでは至らない、ゆるいスピリチュアリズムを連想すればよい。 だから、儒教の教えでは画然と区別される「臣」(官吏)と「民」(民間人)が、いつのまにか合併して臣民となる。これまた本来は相互に矛盾しえるはずの「忠孝」も、社会の全体が一個のイエだとする観念のもとで癒合し、一本化される。親に孝を尽くすためにこそ、非道な君主への忠を捨てるといった営為は、認められない。 こうしたコスモスにウイルスが侵入すると、「家族を病気から守りたい」が「国を外敵から守りたい」とイコールになる。だから強制力のある法律(=契約)ぬきでも「自粛」し、違和を唱える者を排除するわけだ。『國體』はなお生きているとする氏の指摘は、危機によって立証された。 一方、後半部の「アメリカ大権」論は、評者には納得しがたい点が多かった。なぜか近日の識者は、戦後の米国の日本支配が「隠されてきた」とする観点に拘泥する。しかしそれは隠されてなどおらず、日本人は「わかった上で」コスモスの一部に受け入れたと解した方が、本書の前半部とも整合的だろう。 繰り返すが、ウイルスを「撃って」滅ぼすことはできず、罹患して免疫をつけることができるだけだ。それを安全に実現する手段がワクチンだが、本書はまさに、目下蔓延する日本病というウイルスへのワクチンである。(よなは・じゅん=歴史学者・日本近現代史) ★はしづめ・だいさぶろう=社会学者。東京工業大学名誉教授。大学院大学至善館教授。著書に『はじめての言語ゲーム』『戦争の社会学』『丸山眞男の憂鬱』『世界は宗教で動いてる』など。一九四八年生。