――オルタナティブなまなざしで文化を手直しする――濱野健 / 北九州市立大学准教授・社会学週刊読書人2021年7月2日号深掘り観光のススメ 読書と旅のはざまで著 者:井口貢出版社:ナカニシヤ出版ISBN13:978-4-7795-1535-4 今日の文脈において、観光が余暇活動を越えた広範囲な社会現象であることを否定することはできないだろう。観光学でも、従来の観光のあり方とその将来を社会全体との関わりにおいて反省的に捉え直す視点がますます広がりつつある。このコロナ禍で一躍脚光を浴びるようになったマイクロツーリズム、観光における持続可能性や倫理的な側面の再検討、被災地観光におけるコミュニティの共訳不可能な体験に寄り添うなどの姿勢が顕著に見られる。こうした観光学の潮流に本著を捉えつつ、ここではその内容に触れてみたい。 本著のテーマは、一九世紀末に端を発する日本の近代化への問い、すなわち地域文化資源を国家の「大きな物語」へと回収し続けてきた文化政策への疑問である。とりわけ近年その傾向著しい「観光政策」では、ポスト・バブルを引きずった観光立国宣言から地域おこしにいたるまで、首尾一貫して「大きな物語」を回復しようとするその姿が著しい。しかし著者は、文化政策の根幹にあるのは地域文化資源の保存と発展的継承によってその「小さな物語」を支えることであり、観光もその延長にあるべきだと説く。その手直しのための手立てとして著者が紹介するのは、それらの一連の「小さな物語」を引き受け、そして後生へ継承する役割を果たした一連の文学テクストだ。その読解を通じて涵養する「人文知」、そして生じるオルタナティブなまなざしを媒介とした文化観光をめざし、著者は次世代に向けてこれからの社会の行く末とそこに携わるものの責任を論じる。 著者の論点を以下のように整理する。観光に代表される現在の地域文化政策は、地域のもつ歴史的重層性をないがしろにし、例えばそれを近代的な経済活動という単一の尺度で扱うことが一般的であった。あるいは異なる文脈での成功事例をそのまま政策パッケージとして導入するという経緯も、先と同様いわば「大きな物語」への統合と回収に向けた社会的言説として機能してきた(これらは本文で「社会科学的暴力」と呼ばれる)。全国の地域おこしでクリシェとなった観光政策の諸事例に言及し、地域文化の持つ特質や多様性、つまりはその「小さな物語」が逆説的に文化政策により奪われてきた様相を批判する。観光政策は地域経済振興のみならず、グローバル化した(そして流動化と脱領域化が著しい)世界での文化戦略としての側面も併せ持つ。さらには新自由主義的な政策へのシフトが、地方の自立を促す一方でその生存競争を過酷なものとした。そうした中、多くの地方自治体が観光がもたらす成長と発展にカーゴ・カルトのように魅入られたのもうなずける。今日の「ご当地」の普遍化は、まさにこうした社会の矛盾を反映しているだろう。 しかしながら著者は、文化政策とは「人文知」あるいは「しごころ」によるべきものではないかと訴える。それは、地域の伝統や文化に対する歴史性、すなわち「小さな物語」へのまなざしだ。地域コミュニティが営んできた「常民」としての生の現実を他者として支え、ともに文化を手直ししていくような政策のあり方であって、日本近代の「大きな物語」には回収できない、継承され続けてきた物語の断片を丹念に拾い集めていくような実践。このような実践につながる観光こそが著者のいう「深掘り観光」であり、文化政策としての観光の未来はそこから始まるものとして捉えられる。「深掘り観光」を支えるうえで欠かすことのできない「人文知」、それは「小さな物語」を「大きな物語」へと統合することなく再発見/観察/鑑賞できる能力であろう。そのための「しごころ」を育てるためにこそ、民俗学や文学そして歴史において綴られた「小さな物語」に目を向ける必要があると著者は繰り返し論じる。その文脈から本文中では様々なテクストが紹介されるのだが、それは例えば柳田国男や宮本常一による民俗学的な知であり、あるいは近代日本の来し方行く末を問い続けた司馬遼太郎の史観などがあった。こうした著者の「反・近代」のまなざしは、ある側面ではいくぶん保守的な教養主義への回帰のように見えなくもない。そして著者が「小さな物語」の発見と継承に携わったとする近代の「知」の体系それ自身、すなわち柳田民俗学や司馬史観そのものが無自覚に前景化した伝統観、つまりそれ自身の「近代的まなざし」の再検討も必要だと思われる側面もあった。 地域コミュニティとその基盤となる自治体や国が伝統や文化のまなざしの中に折り重ねられた「小さな物語」を手直しすること、つまりそこにあり得べき政策とはどのような実践につながるというのか。地域コミュニティはもちろんのこと、観光者はそこにどのように関わるのだろうか。その一つの可能性は、関与する全てのアクターが単一には収斂できない「ご当地」の多義性を縮減することなく(対立する歴史観や文化観を包摂するという意味でもある)、観光という実践から協働翻訳し続けるというのはどうだろうか。著者が取り上げている「地域文化」の事例でも、その歴史性や内容と地域コミュニティの関わりは極めて多様性に富んでいることからして、「地域文化資源」への安易な統合など不可能なものがある。こうした「小さな物語」が、文化政策や観光(そして実際の観光において)への容易な翻訳をはねつけるであろうことは心に留めておく必要がある。その共訳不可能性に向き合う過程、それを持続させる知の技法を通して、ホストとゲスト、地域と観光者などの間の限定的な交換を超えた場が開かれる契機が生じうる。 本著で語られる文化、それは区切りや境目、始まりも終わりもない何かだ。文化とは、「語られ続けること」「使われ続けること」さらには「翻訳/創出され続ける」ものだ。この本を通じて諸テクストからオルタナティブな文化政策の可能性を拓き、各地の文化を発展的に手直しするという「深掘り観光」の契機を実践してみせるとき、私たちは観光を介した地域文化とコミュニティの予期せぬ翻訳の可能性に触れることだろう。(はまの・たけし=北九州市立大学准教授・社会学)★いぐち・みつぐ=同志社大学政策学部教授・文化政策学・文化経済学。著作に『反・観光学』『くらしのなかの文化・芸術・観光』『まちづくり・観光と地域文化の創造』など。一九五六年生。