現代の映像アーカイブ論としても有益な視座を提供 木原圭翔 / 早稲田大学他非常勤講師・映画理論・テレビ論 週刊読書人2022年4月1日号 中動態の映像学 東日本大震災を記録する作家たちの生成変化 著 者:青山太郎 出版社:堀之内出版 ISBN13:978-4-909237-63-7 本書のテーマは何か。独創的な映像論を通読してまず頭に浮かんだのが、この単純な問いであった。 序章と第一章で説明されているように、社会全体にデジタルテクノロジーが浸透した現代において、映像文化を〈見る〉ことの様態は劇的に変化した。私たちはテレビに代表されるマスメディアが伝える視聴覚情報を受動的に受け取るだけでなく、今では自ら撮影し、その映像をSNS等に拡散することで、新たな「映像生態系」を生み出し、そこへ能動的に参入している。しかし、こうした事態は必ずしも私たちの映像体験を豊かにはしていない。あらゆる映像は一瞬のうちに消費され、その多様な意味が顧みられることもない。映像の受容はむしろますます画一化されており、そうした現代における〈見る〉ことの「上滑り」状態を、著者は本書を通して告発しているのだろうか。 あるいは、サブタイトルが明確に示すように、本書は東日本大震災を記録した映像作家の「創造性」に焦点が当てられてもいる。とりわけ、第四章で詳述される酒井耕・濱口竜介、鈴尾啓太、小森はるか・瀬尾夏美といった作り手たちは、従来の定石が通用しない圧倒的な強度を持つ震災という現実を目の当たりにする中で、映像制作の方法論それ自体を問い直しながら、主体である自らが「生成変化」する過程をも組み込むような、各々が非常に独特かつ自己反省的な作品を生み出した。また彼らは、せんだいメディアテークが運営母体の「震災復興の記録と情報発信をおこなうプラットフォーム」である「わすれン!」(3がつ11にちをわすれないためにセンター)の活動と密接な繫がりを持つが、同事業の概要やその特異性についても――第二章で紹介される様々なアーカイブ事業との比較を通して――第三章で詳述されている。したがって、本書は現代の映像アーカイブ論としても有益な視座を提供している。 とはいえ、本書の独自性が際立つのは、やはりそのメインタイトルに採用された「中動態」という概念がようやく議論に導入される第五章だろう。主体が明確な外部に位置する能動態とは異なり、主体自体が行為に巻き込まれ、その主体性を変化させるような事態を指すとされる中動態という視点は、前述の映像作家たちの個別の創造性に共通する本質を見事に浮き彫りにしている。さらに著者は、映像制作の実態を記述するには通常の中動態概念では不十分であるとし、主体(作り手)の視線にカメラの視線が加わった「複眼的中動態」という新たな概念を提起することで、その特性のより厳密な理論化を試みている。この概念は映像制作一般を考えるうえでも有効だと思われるが、本章で展開されるやや難解な理論的視点は一定の読者を警戒させるかもしれない。しかし、本書は震災をめぐる映像作品が、理論のための単なる素材として利用されているという印象をまったく与えない。それは本書の章構成の巧みさに起因しているように思われる。すなわち、もし中動態という理論の説明が冒頭に置かれていたならば、それは本書全体の読み方を著しく規定してしまっていただろう。だが本書は、あくまでも震災という過酷な現実に対峙した作家たちの方法論が個別に検証され、その後に、中動態の概念を用いてその実態が整理されている。中動態は本書が論じる作品の核心に迫るキーワードであるが、一方でその配置の仕方によって、その視点が多様な〈見る〉に開かれた作品に対する一つの可能性に過ぎないことを自ら示している。それは映像受容の画一化を批判し、その未知なる可能性を探究する本書の姿勢と軌を一にする。 したがって、冒頭の問いに戻れば、本書のテーマは映像制作における中動態の問題でもあるし、そうでもない。東日本大震災を記録した作家論でもあるし、そうでもない。アーカイブ論でも、現代日本文化論でも、テクスト分析でも、制作論でも、観客論でもあるし、そうでもない。こうした明確な主題の決定不可能性が何ら否定的な事態ではないということは、本書を紐解いた読者には自ずと明らかになるはずである。(きはら・けいしょう=早稲田大学他非常勤講師・映画理論・テレビ論)★あおやま・たろう=名古屋文理大学准教授・美学・映像学。京都工芸繊維大学大学院博士後期課程単位取得退学。博士(学術)。一九八七年生。