――現代日本に「暴力」を置いて考える――櫻井信栄 / 日本文学研究者・韓国語翻訳者週刊読書人2021年12月3日号暴力論著 者:高原到出版社:講談社ISBN13:978-4-06-524450-0 暴力とは何か。暴力の闇の奥には何がひそんでいるのか。この問いを抱いて高原氏は大江健三郎と三島由紀夫、ジョージ・オーウェルと武田泰淳、原民喜と井伏鱒二、大岡昇平と奥泉光、ジョナサン・リテルなどの著作を読み解いてゆく。本書の「Ⅰ テロリストが、生まれる」で、自らの内奥の引き受けがたいものが他者へと剝き出されている恥辱、そして「純粋」という概念に取り憑かれたが故に、いわば外側からも内側からも包囲された状態となり、そこでもがきながら暴力をふるい続ける右翼テロリストの絶望的な像がまず示される。また、外側から押し寄せる敵と内側にひそむ敵の両方から脅かされているという「被包囲強迫」は、外部化された恥辱めがけて激しい攻撃をしかける現代のヘイトクライム、ヘイトスピーチに共通する機制となっていることが語られる。「政治少年死す」を通じて読み解かれる被爆者の被害について、私は在特会が広島で「被爆者利権」が存在するなどと人倫に反するヘイト街宣を行ったことを思い出し、憤りを新たにした。「Ⅲ 日本近代文学の敗戦」では、大日本帝国の抗戦力とアジアの盟主という「政治の風景」を剝奪した原爆について、その被害を表象する過程で苦い挫折を味わった『黒い雨』と「夏の花」が高校の国語教科書に採録され「正典化」を遂げ、昭和天皇が戦争責任と原子爆弾投下の事実に関して「そういう文学方面はあまり研究もしていない」「気の毒であるが、やむを得ないこと」と語った一九七五年に「日本近代文学は死んだ」、日本近代文学の〈内面―風景―言語〉と日本近代の〈文学―政治―言語〉の三位一体は原爆に敗北したと鮮やかに分析している。 本書の白眉は「Ⅴ 二つのフィリピン戦」において、「俘虜記」で銃口の先に若い米兵の顔を見いだした大岡昇平が、『レイテ戦記』では何十万という将兵たちの戦った時空を「彼等」と「私」、「証言」と「推測」が見分けがたく重なる「原情景」に自由間接話法で記し、語り手が数多の「顔」に助けられて存立する「弱い超越性」を持つに至ったと指摘している部分である。高原氏は「顔」の出現/抹消こそが暴力の本質であるとしているが、この定義も含めて本書が誠実であるのは、かつて高原氏が勤め先の飲み会の帰りに(酔った挙句のこととはいえ)上司と警備員と警察官に暴力をふるい、その反省の芯にはいつも浮かび上がってくる彼らの「顔」がある、と巻頭で自らの加害を告白しているからである。暴力は非日常でも他人事でもないと内在的に考える姿勢が、暴力とは何かという本書の問いをより一層深いものにしている。 ここで「暴力」と「顔」ということに関連して、ある私的な問いを記しておきたい。先日、海外ルーツの小説家がツイッターで歴史・人種問題に関する不誠実な質問を繰り返される嫌がらせを受けてツイッターから撤退した。作家の声をかき消したその攻撃的なアカウントには多くの批判が向けられたが反省する様子はなかった。私は一足遅くそれを知って、海外ルーツの市民には自由にツイッターを使う権利すらないのかと怒り心頭に発し、穏当な方法で入手した顔写真とピアノを演奏する姿を映した動画を本人に向けてツイートしたところ、彼女はアカウントを非公開にして逃亡した。ネットで暴力をふるう者を制圧する最も良い方法は本人の「顔」を晒すことである。この社会に「清く正しく」の数を増やすよりもヘイトスピーチの総数を減らすほうが大事だと私は考えるのだが、私の行為は誤った暴力であっただろうか。 いま日本では新型感染症によって人々の「顔」がマスクで覆われた中、国家機能の劣化が世界に恥ずべきレベルで露わとなり、その閉塞感と恥辱を振りはらうかのように、無差別傷害事件と女性に対するヘイトクライムが頻発している。『暴力論』は、不安定化した現代の日本社会に「暴力」というキーワードを置いて考えるための好著である。(さくらい・のぶひで=日本文学研究者・韓国語翻訳者)★たかはら・いたる=批評家。二〇一五年「ケセルの想像力」で第五九回群像新人評論賞優秀作を受賞してデビュー。文芸誌を中心に旺盛な批評活動を続ける。一九六八年生。