――人間や文学を宇宙的、人類的なものに開く――樋口良澄 / 批評家・元「現代詩手帖」編集長週刊読書人2021年11月26日号二千億の果実著 者:宮内勝典出版社:河出書房新社ISBN13:978-4-309-02993-1 宮内勝典は、これまでの小説やエッセイで「種としてのヒト」、「惑星としての世界」という視点をしばしば問いかけてきた。『二千億の果実』は、そんな世界像が縦横に追究されている。 短い物語の連なりによって書かれ、様々な虚構の「ヒト」が語る。動物学者、宇宙飛行士、ゲリラ兵士、アンデスの飛行機事故の生存者、中国残留孤児二世……、そして著者の分身、アインシュタインやゲバラといった著名人を擬す語り、さらにはネアンデルタール人やボノボまで。それらは現代を考えるための特異点をつなぐように構成され、いくつかの連続する物語を作り、読み終えるとヒトの歴史と現在、その多様性が浮かび上がる。語りの主体は、性や年齢、はては種を超えて変化し、人称も「わたし」、「俺」、「i」……と移行する。物語は、語りの冒険でもある。 短い物語群による小説といえば、フリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』やフェルナンド・ペソアの『不安の書』を思い浮かべるが、いずれも断片としての世界と向き合うための試みだった。『二千億の果実』はこうした作品に連なるともいえようが、むしろニーチェやシオランのような思想的な断章や、サルトルの「全体小説」の探究を想起させる。「小説は窮屈だ。(略)小説は一つの文脈しか書けない」。アインシュタインを一人称で書く物語「Aの夢」に、「i」が闖入して呟く。この引用がかいま見せるように、人間や文学を宇宙的かつ人類的なものに開き、全く新たな小説の可能性を追究しようとする、強い意志のようなものを感じるからだ。 かといって、いたずらに拡散するわけではない。物語を通して、人間の根源を問いかけることが一つの軸となっている。 冒頭の物語「ルーシー」からして、ルーシーと名付けられた猿人(実際に発掘され、人間と類人猿の分岐点とされた)の意識の物語に、現在のケニアを生きる、やはりルーシーという名の女性が交錯する。個としての人間の語りが、種としての人間の始まりの語りに重なることによって、意識とは、そして人間とは何かという問いが読者に突きつけられる。 人間の最も原始的な欲望である食欲や性欲、攻撃欲をめぐる記述がこの作品のリアリティを支えているが、食人やチンパンジーの子殺しなどでそれらを描き、欲望をその始原から問おうとするのも、この小説の核に通じている。 欲望は人間の知恵を生む一方で、差別や支配といった闇を生んできた。「アンデスの聖餐」では、飛行機事故の生存者が、犠牲者の死体を食べることで生き延びたという事件をもとに、現代を成り立たせている秩序、いや善悪そのものを根底から問おうとする。 物語群の通奏低音のように、自伝的な語りが挟まれる。ハルビンで生まれ、引き揚げ、世界を放浪し、家族を持ちニューヨークに住み、また日本に戻る作家本人の時間と交錯するように語りは進む。これまでの宮内作品のエピソードが再話される。それらは、作者自身の「私とは誰か」という問いのようでもあり、この物語群の中で、「私」が「ヒト」という種の未知の語りの中に溶融していく過程のようでもある。 タイトルの「二千億の果実」の「二千億」とは、最後の「コロナの日々」によれば、銀河系の星の数(正確には恒星)である。星の数のように、ヒトの物語は無数にある。読み終えて、それらが偏在する世界の拡がりを思った。コロナ下の閉塞感を吹き飛ばすような物語の力だった。(ひぐち・よしずみ=批評家・元「現代詩手帖」編集長)★みやうち・かつすけ=作家。ハルビン生まれ。著書に『南風』(文藝賞)、『金色の象』(野間文芸新人賞)、『焼身』(読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞)、『魔王の愛』(伊藤整文学賞)など。一九四四年生。