――日陰と日向のまだら模様にいろどられた世界――田中庸介 / 詩人週刊読書人2021年9月17日号迷路と青空 詩を生き、映画を生きる著 者:福間健二出版社:五柳書院ISBN13:978-4-901646-38-3 本書は、優れた現代詩人・映画監督・英文学者である著者が、この十年くらいの間に「現代詩手帖」「キネマ旬報」「映画芸術」などに発表した論考や講演録を、詩・映画・文学の三つの章にまとめた三百ページ超の大著である。著者はその人生において永年、大いなる昏迷を生きてきたようにも見えるが、この昏迷は多分に、著者の現代詩人としての生活がもたらした職業的なものでもある。しかし、そのような人生の昏迷だけではなく、それとともに文学の本質をズバリと一言で言ってのけられる研究者としての優れた批評眼が、独特の表裏一体の関係に組み立てられているところが興味深い。この組み合わせによって世界はおそらく、日陰と日向のまだら模様の《迷路と青空》にいろどられた場所としてみえてくる。 詩の章では、荒川洋治・季村敏夫ら同世代の詩人から、三角みづ紀・岡本啓ら後進の世代に至るまで、幅広くかつ好みがハッキリした詩人論が秀抜である。七十年代以後の日本の詩論の基礎を築いた北川透の詩誌「あんかるわ」から出発した著者の筆致は巧みであり、読むものを飽きさせない。特に北川透その人についての章「「遅れ」の正体」が良かった。著者はまず、北川透が、鈴木志郎康・菅谷規矩雄らのいわゆる六十年代詩に対して「遅れ」て出発し、しかし詩集『反河のはじまり』の作品群における「〈河〉のモティーフ」の発見によってその「遅れ」を「何とか持ちこたえた」と言っていることに注目している。それによって「この半世紀、何がどう裏切られてきたのかも見えてくる。踏み込むべき「未知」が封じられているということだ。そういうなかで、スリルをもって浮かびあがる問いのひとつは、二人の死者、菅谷規矩雄と松下昇が途中で終わらせているものに、私たちの現在がどう届いているかだ」。重要な指摘である。 映画の章には、著者がいかに二十世紀フランスの芸術運動であるヌーヴェルヴァーグに影響を受け、日本映画にコミットしてきたかということが書かれている。バザン、ゴダール、トリュフォーというような映画監督には、いずれも映画評論家としての出発がある。この基盤に立って、著者はタイ現代の映画監督アピチャッポン・ウィーラセタクンについて「映画史の初期に息づいていたものを取り返しながら未知へと踏み出している」と絶賛する。「アピチャッポン作品には「人間のする行為でつまらないものなどない」という感じ方が独特にある。つよく言ってしまえば、それが方法をこえる方法になっている」「暗喩や寓話性やミスティフィケーションへの回路を封じて、見えているもの、語られていることを、それだけのもの、それだけのことにする」「彼岸と現世、過去と現在、そして魂と肉体のあいだの、たがいに癒されるべきものと癒す力をもつという相互性」と著者は述べる。それははからずも、北川透の詩論からつながる「未知」の見つけ方の可能性へと橋をかけるような、つよいメッセージとなっている。 文学の章では、小島信夫についての短いエッセイ「彼が抱きしめたもの」が良かった。「そっけない文体。彼だけの特許ではない気がするけど、私はすごいと思ってきた」というのは、これもヌーヴェルヴァーグの美学につながる。「彼の文体はときに、いや、しばしば、言葉がたどっている地面とは別のところに思考の網を広げていく」「選択によるのではなく、自分はコントロールできない力の作用によって踏み込んでしまう領域。そこにおいてこそ、文学と生はいっそう深く結びついたのだと想像する」というこれは、「未知」の見つけ方の、もうひとつの変奏だ。 こう読んでくると、著者の「迷路と青空」とは、そう、「未知」の見つけ方、その可能性のことだろうと思われてくる。それは文学や映画をとおして、我々が踏み込みたい領域そのものだ。本書がわれわれの表現を力づけてくれる源泉は、まさにそこのところの記載にある。(たなか・ようすけ=詩人)★ふくま・けんじ=詩人・映画監督・東京都立大学名誉教授。著書に『佐藤泰志 そこに彼はいた』、詩集『青い家』(萩原朔太郎賞、藤村記念歴程賞)、映画に『パラダイス・ロスト』など。一九四九年生。