――未知へ導く多彩なリスト、テクストとしても存在――長谷川一 / 明治学院大学教授・メディア論・メディア思想・文化社会学週刊読書人2020年10月30日号本のリストの本著 者:南陀楼綾繁/書物蔵/鈴木潤/林哲夫/正木香子出版社:創元社ISBN13:978-4-422-93086-2 読みたい本を好きなように読む。学術的な訓練であればともかく、たいていの読書なら、それがいちばんだ。けれども初心者には、それはいささか酷な助言かもしれない。膨大な本の群れを前にして、どこからどう手をつければいいか見当もつかずに途方に暮れ、冷たく拒絶されているようにさえ感じられているのだから。 そこに救いの手をさしのべるのが、リストである。適当なリストから一冊選んで読みはじめる。最初の一歩の踏みだし方として、まず妥当な線だろう。ひとの関心はさまざまだが、初めはだれだって初心者だ。そして本のリストは世にあまた存在する。リストはひとを本の世界へ結びつける最初の媒介者なのだ。 そんな本のリストを集めに集め、一冊の本にまとめてしまったのが本書である。南陀楼綾繁、書物蔵、鈴木潤、林哲夫、正木香子という五人の書き手が、それぞれ選りすぐりのリストを持ち寄り、語る。むろん本について一家言ある書き手たちのことだ、ジャンル別おすすめみたいな、ありきたりのリストではない。どれもこれも一筋縄ではいかない曲者ぞろいである。「名曲喫茶に積まれていた本」、「獄中で読む本」、「子どものひとりの時間を描いた絵本」、「国が価格設定した古本」、はては夭折した「ひとりの編集者が予告した本」のような不在のリストまで。かくも多彩なリストが成り立ちうるという事実そのものが、本の世界の多元性をあらわしている。 読みすすむうちに、本のリストが、まるで天球に描かれた星座のように感じられてきた。本好きならだれもが知るように、本はもとより孤立した存在ではない。どの本も、他のさまざまな本との関係のなかに結節点として存在する。それ以外には存立のしようがない。それゆえ本の世界は、ひとつの宇宙をなしている。ただしその宇宙は、各人の経験に依存するがゆえ、天文学的な宇宙とはちがい、ひとりひとりに異なる姿をもって立ちあらわれる。だから本のリストとは、わたしの宇宙はこんな姿をしているという気づきに形をあたえ、これを諒解しようとする力が生みだしたものなのだ。 それがリストに固有の力、すなわち他者を未知の世界へと導く力の源泉となる。リストはどこまでも他者のものである。作成するのも他者ならば、参照するのも他者だから(過去や未来の自己も他者である)。つまり、未知の世界のとば口へ降りたとうとするのなら、初めはだれもが他者の力を借りなければならない、ということだ。 ひとたび世界にとりついてしまえば、あとは本との出逢いを重ねて読みすすめてゆける。そのうちあるとき、じぶんなりの本の宇宙が形づくられていることに気がつくだろう。その宇宙のありさまを諒解するために、星座すなわちリストという形で表象する。それが共有され、あらたな導きへと連鎖してゆく。水面に投じた小石の波紋がつぎつぎとひろがってゆくようなこうした循環は、本と読書をめぐるもっとも幸福な関係のひとつである。 本書はさらに興味深いことを教えてくれる。リストは必ずしもリストとして、いいかえれば、本にたいするメタレベルの語りとしてとらえなくてもよい、ということだ。 たとえば、戦前に発行されていた『全国新聞雑誌通信社名鑑』である。ありとあらゆる新聞雑誌を網羅したというふれこみの分厚い名鑑だ。発行母体の名称も相応にいかめしいが、その実態はちいさな雑誌社だった。無名の版元がなぜこんな大名鑑を? 著者(書物蔵氏)が調べてみると、その出版意図は意外にも、総会屋対策にあることが判明した。べつの小雑誌の記事のなかで、版元がみずからそう述べていたのだ。ところが、そう語られる頁の先をさらにめくってゆくと……。詳しくは本書を読んでいただきたいのだが、これでミステリーの一本くらい書けそうである。リストをリストとしてというより、テクストとして読んでも、もちろんかまわないわけだ。 げにリストの愉悦は底知れぬ。(はせがわ・はじめ=明治学院大学教授・メディア論・メディア思想・文化社会学) ★なんだろう・あやしげ=ライター・編集者。著書に『一箱古本市の歩きかた』など。一九六七年生。★しょもつぐら=古本コレクター。★すずき・じゅん=子どもの本専門店「メリーゴーランド京都」店長。著書に『物語を売る小さな本屋の物語』など。一九七二年生。★はやし・てつお=画家。著書に『喫茶店の時代』など。一九五五年生。★まさき・きょうこ=文筆家。著書に『文字の食卓』など。一九八一年生。