――二つの顔の〝私性〟、未来をめぐる新鮮な言葉と認識――坂上秋成 / 作家週刊読書人2020年9月18日号すべて名もなき未来著 者:樋口恭介出版社:晶文社ISBN13:978-4-7949-7177-7 奇妙なテクストを読んだ。 それは小説でもあり詩でもありエッセイでもあり批評でもある。 『すべて名もなき未来』について書く上で初めに記しておくべきは、その語り口、そのレトリックの鮮やかさだろう。 現代のテクノロジー、政治形態、経済システム、文学の現在、書物の意義、人間の理性と想像力。それらについて幅広い知識を有しながら、樋口の語り口は単にロジカルであることから逃れていく。ぱきぱきとした言葉の積み重ねの隙間に、論理とは無関係にすら見えるポエジーが忍び込み、テクストの硬直性をあっさりと解体してしまう。 樋口は二つの顔を持っている。クライアントに対し単一の未来をプレゼンするコンサルタントとしての顔と、虚構を語ることで現実を再構築し複数の未来を思考するSF作家としての顔。言い換えればそれは、彼が雄弁かつロジカルな図面を描きながら、そこにフィクションとしての想像力とポエティックなメッセージを添えるという二つの行為の中で揺らいでいるということでもある。 本書はまさに、その揺らぎを通奏低音として常に響かせている。 テクノロジーが急速に発達し、リアルがハイパーリアルに置き換わり、不確実な〝真実〟が幅を利かせるポスト・トゥルースの情報世界。そこに放り込まれた私たちは、状況と状況とが繫がりを失った環境、つまりは大きな物語のない世界で断片的な存在になるしかない。 一貫した主体性への信仰を放棄した分人として、「全ての矛盾が矛盾として存在するままに統合され乗り越えられた、完全な、なめらかな世界」を生きることに、樋口は未来への希望と愛を見出している。 しかしそれは現実的な思考なのだろうか? 断片化された世界やテクストを、断片のまま受け入れるというような恐ろしい行為が人間に可能なのだろうか? 批評であり書評であり旅行記であり、フィクションでありノンフィクションであり、論理的であり夢想的に散らかった本書のテクストを、断章の集積としてのみ受け取ってしまうことが許されるのだろうか? 問いに対する答えは、おそらく、樋口恭介の特殊な〝私性〟の発露――テクストへの主観的介入の技法にある。 著者のナイーヴな人生観や過去の経験がべたついた様式で語られる批評ほど見苦しいものはない。それは文章から客観性を奪い、安易な共感によって論理を駆動させてしまうものだから。 しかし樋口の〝私性〟はそのような姿勢と大きく異なる。それは樋口の個人的な体験でありながら、同時に彼の世界認識と深く結びついたものだ。たとえば彼が一冊の本についての書評を書く時、それは単なる分析や解説の枠にとどまらない。彼は本について語ることで、自身の世界をさらけ出し、そのまなざしを読者に共有させようとする。断章的につづられていく言葉に触れながら、私たちはそれらが樋口恭介という固有名に収束していく様を感じ取る。 大仰に聞こえるかもしれないが、これは筆者にとって新しい読書体験だった。陳腐な〝自分語り〟を中心に据えたりはせず、しかもどこか詩的な感性を感じさせる言葉の群生。それが可能になるのはきっと、過去をいくらでも改変できるのと同じように、未来もまた無数に存在し改変できるのだという強い主張が本書の根幹に置かれていることによる。 樋口は自己を語るその先に、断片化した世界を生きる人間たちが選び取る未来の設計図を見ている。それはコンサル的視点とSF作家的視点の融合によってなされる、新しい時代に必要とされる言葉の在り方なのかもしれない。 テクストはテクストでしかない。そこに記された言葉以上の情報はなく、作者という存在はノイズにしかならない。そのような観点にこだわるのももちろん自由だ。しかし本書を読むと、作者の世界認識に寄り添うようにして言葉の連なりを眺めることで、こちらの認識までもが混乱し変容し覚醒するその感覚を味わえる。 私たちはこれまでもこれからも、偶然性に彩られた時間の中を生き、未来にとらわれ続けていく。その際、樋口が本書で結果的に提示した〝作者の復権〟という概念もまた、新たな未来を創造するための重要なファクターになるように思えてしまう。 曖昧な世界で、断片的な情報を、ゆるやかにまとまった認識へと着地させるそのために。(さかがみ・しゅうせい=作家)★ひぐち・きょうすけ=SF作家・会社員。本書以外の著書に『構造素子』。文芸誌等で散文を執筆。一九八九年生。